今日は月が出てるな、今度、新しい首輪を買ってやるよと僕は道々チビに話しかけていた。チビは僕の声がするたびに閉じかけた目を開け声にならない声で鳴いていた。
僕は、僕が黙ってしまったならチビの目は閉じてそのまま開かなくなるだろうとわかっていた。
今チビは痛みを感じているのだろうか。もし、少しでも痛みを感じているなら、こまま静かに目を閉じさせてやればチビは楽になれるだろう。でも、それはチビとの永遠のサヨナラを意味する。
チビとサヨナラなんかしたくない。でも、チビに辛い思いもさせたくない。僕はどうしたらいいのだろう、とチビにごめんな、と笑いかけた。
角を曲がった時、目の前が真っ白になり、僕はドンッと何かに勢いよく当たった。
痛っ・・・と思っていると真っ白になった視界が戻ってきた。男の人が僕の顔をのぞき込んで何か話しかけてきている。頭がボーっとして何を言っているのかよくわからない。
「・・・ですか?!」
え?誰だっけ?仕事で会った人だったかな?まずいな、思い出せない。僕に話しかけてきてるって事は、向こうは僕の事を知ってるんだよな。取引先の人だったらまずいな。どうしよう・・・
一瞬、頭がクラッとして視界が歪んだ。
「大丈夫?」
僕の顔をのぞき込んできたのはさっきの男の人ではなく、女の子だった。
「ごめんね、私・・・」
彼女は目に涙を溜めている。
「あ・・・あの・・・」
「・・・そっか・・・もう私の事なんて忘れちゃったよね」
「え?」
そう言われればどこかで逢ったような気がする。
「これなら、覚えてる?」
彼女は右手を上げた。そこには空色のブレスレットがあった。
「・・・?・・・あ・・・これ、チビの・・・」
「違うわよ。あなたのお母さんが私に買ってくれた物よ」
「・・・?!・・・・ナナ?!」
「そうよ。私・・・私ね、ずっとあなたが好きだったの。ずっと一緒にいたいって思ってた。でも、私は猫。死ぬ前の私なんて、おばあちゃん猫だったのに。笑っちゃうよね?」
「そんな事ないよ」
「私、自分がもうすぐだってわかってたの。だから、最期の時はあなたの夢を見たいなって思って、あなたの枕元にいたの。そしたらね、一度だけあなたの夢が見れたの。公園のベンチであなたの隣りに座ってる夢」
「公園のベンチ・・・?思い出したよ。あの夢に出てきたのはナナだったんだ」
「同じ夢を見たのかな?だとしたら嬉しいな。夢の中でね、私の事探してねってあなたにお願いする夢よ」
「探すよって僕は答えるんだろ?」
うん、と彼女は嬉しそうに笑ってうなづいた。
「最期の時はね、何だかふわふわして、とっても気持ちよくてだんだん眠くなって・・・目が覚めたら、知らない所にいたの。知らない場所にひとりぼっち。どうしていいかわからなくて泣くしかなかった。そしたら・・・
どうした?って声がして・・・その声を聞いた時、息が止まったわ。すごく懐かしい声だったから」
「チビはナナだったんだ」
「そうみたい。初めは私もよくわからなかったけど、だんだん少しずつ思い出してきたの」
「全然気付かなかったよ。ははは・・・うっ・・・」
笑った途端、僕の背中に激痛が走った。
「大丈夫?!私のせいよね・・・私がもっと気を付けていれば」
「・・・ナナこそ、大丈夫なのか?」
「私は・・・私はもうダメみたい。夕方前にちょっと外に出たの。いつものように垣根の下から出て、ちゃんと左を見て車が来てないから道路に出て。そしたら、いつもは来ない右の方から車が来て・・・私、咄嗟の事で動けなかった」
僕の家の前の道路は一方通行で家の前を右から左に車が通るなんて事はあってはいけないのだ。
「ひどいヤツに会っちゃったな。痛かっただろ?ごめんな。僕がもっと早く気付いてあげてれば」
「ううん、あなたのせいじゃない。私がもっと気を付けていたら、あなただってこんな事にはならなかったのに・・・ごめんなさい・・・私ってバカよね。せっかくまたあなたと一緒にいられるようになったのに・・・」
ナナの目から涙がこぼれた。
「一緒にいられるよ」
ナナを見上げると、ナナの肩越しにさっきより傾いた月が見えた。
近づいてきたはずの救急車のサイレンの音が遠ざかって行くように聞こえる。僕は言う事の聞かない腕をやっとの事で伸ばし、ナナの手を握った。
色も音もなくなってきた僕の最期の記憶は、僕の手を握り返すナナの手のぬくもりだった。
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