夢で逢えたら 3/4

 コーヒー用のミルクを水で溶かしたものをその仔猫に飲ませている間、僕はコンビニへ走りキャットフードの缶詰を買ってきた。
 僕が帰ると仔猫は僕のベッドの枕に寝ていた。ミルクに足を突っ込んだらしく、点々と小さな足跡が残っていた。
 「疲れたよな。あんな大声で鳴いてたんだもんな」
 起こすつもりはなかったけれど、僕の独り言に仔猫は起きてしまった。
 「ミルクだけじゃ足りないだろう?ゴハン買ってきてやったよ」
 使ってない皿にキャットフードをあけると、仔猫は皿に前足をのせて一生懸命に食べ始めた。
 「明日、休みだからお前のフードトレイとか買ってやるからな。それより、お前の名前、何にしようか?ちっこいから・・・チビでいいな」
 自分で言った事なのに、僕は自分のセンスのなさに苦笑した。
 この日から僕とチビの生活が始まった。チビは誰にでもよくなつき、みんなが僕の家で飲むという時は酒とつまみ以外に必ずチビのキャットフードが袋に入っていた。
 僕が仕事から戻り玄関のカギをガチャガチャ言わせていると、家の中からチビの首輪に付いている鈴の音が聞こえてくる。玄関を開けると、チビがおかえり、とでも言うようにニャアと鳴く。 一人きりの僕には、例え相手が猫でも帰った来た時に声を掛けられるのは嬉しい事だった。
 「ただいま。今、ゴハンやるからな」
 フードトレイに缶詰をあけるとチビはすぐに食べ出す。もう前足を突っ込んで食べるような事はしない。時々、トレイのフチに鈴が当たってチリチリと音を立てていた。
 チビを連れて帰った翌日、僕は約束通りチビの物を買いに出掛けた。ペットコーナーをウロウロしていると、首輪があった。ナナもしていたし、チビにも買ってやるかと選んでいると一番奥に空色の首輪があった。
 ナナと同じのかな?と思った時、僕の中を何かが通り過ぎた。何を思い出しかけた?一瞬の事にそれがなんだったのかわからなかった。気のせいだな、とその空色の首輪をカゴに入れ買い物を続けた。
 
 僕が学生時代に付き合っていた彼女は卒業後留学してしまい、僕たちの仲もそこで終わった。今では新しい女の子が僕の傍にいるようになった。
 猫が好きという彼女もまた、みんなと同じようにチビをかわいがってくれていたし、チビも彼女になついているようだった。
 「あら、チビは?」
 「外に遊びに行ってるんじゃないかな」
 「せっかくチビと遊ぼうと思ってたのにな」
 彼女は残念がっていたが、僕は何となく気付いていた。彼女以外の誰が来てもチビは一緒にいるのに、彼女が一人で来ている時だけはチビは姿を消す。外遊びもするようになって友達もできただろうし、気付いていたと言ってもそれはただの偶然かもしれないけれど。
 「そのうち帰ってくるよ。チビは必ず帰ってくるから」
 不用心とは思ったけれど僕が会社に行っている間も庭に出る戸は、いつもチビが通れる分だけ開けてある。きっとそこから外へ出て遊びに行っているだろうけれど、おかえりのニャアは今まで一度も忘れた事がない。
 「今日からここがお前の家だからな」
 最初に出逢った日、前足を皿に突っ込んでキャットフードを食べていたチビに言うと、チビは顔を上げた。僕が言った事が分かったのか、今までにチビが戻らないという事はなかった。
 
 そろそろ長袖の時期だなというある日の事だった。
 いつものように玄関のカギをガチャガチャ言わせても、中から鈴の音は聞こえてこなかった。ただいま、チビ?と声を掛けても返事がなかった。夜遊びを覚えたか、この不良娘がと僕は缶ビールを開けTVを見ていた。灯りがつけばそのうち帰ってくるだろうと思っていたが いつまでたってもチビが帰ってくる様子はなかった。今までこんな事などなかったのに。
 庭に出る戸を開けチビの名前を2,3度呼んだが夜の庭には何の変化もなかった。
 「おかしいな、どこ行ったんだ。彼氏でもできたか」
 もう一度チビの名前を呼ぶと、かすかに猫の鳴き声がした。
 「チビ?!チビなのか?どこだ?」
 僕は焦って庭に降り、チビの名前を呼んだ。チビは部屋の灯りがあまり届かない庭の隅の垣根の下に横たわっていた。
 「おいっ、どうしたんだ、チビ?!」
 チビは弱々しい眼差しで僕を見上げ、ニャアと小さく鳴いた。チビを抱き上げると、その体は血だらけになっていた。
 「どうしたんだ、チビ?!車に轢かれたのか?!」
 僕はバスタオルでチビをくるみ、近所の動物病院へ走った。
 「大丈夫だぞ、チビ。今病院に連れて行ってやるからな。先生に診てもらえばすぐ治るからな、がんばれよ」
 チビは僕の言葉にかぼそい声で答えた。
 動物病院に着いた事は着いたが、そこに灯りはなかった。それも当然、診察時間は6時半で終わっている。僕が帰って来たのは8時頃でそれからここに来るまで、ゆうに1時間以上経っている。
 それでも僕はドアを叩き、すみません、すみませんと何度も大声を出した。ここ以外に動物病院の心当たりはないし、チビの様子を見れば探している余裕などなかった。病院の奥が自宅になっている事を頼みに僕は声を張り上げ、ドアを叩き続けた。
 頼むから、気付いてくれよ。チビが死にそうなんだよ・・・
 やっと灯りがつき、ドアのロックを外す音がした。出てきたのは初老の先生だった。
 「どうしました?」
 「夜分にすみません。うちの猫が車に轢かれたらしくて・・・」
 先生はチビの様子を見るとすぐに中に入りなさいと僕を中に入れてくれた。先生は後ろで立っていた奥さんらしき女性に何か指示し、僕からチビを抱き取った。
 「出血がひどいですね。轢かれたのはいつですか?」
 「わかりません・・・僕が帰ってきたのが8時頃だったんで・・・庭の隅に倒れていて、全然気付かなくて・・・・」
 先生は、わかりましたと静かに言って診察室へ入って行った。僕も一緒に入ろうとすると、白衣に着替えた奥さんに止められた。
 「お呼びしますから、ここで待っててください」
 「どうしてですか?」
 「場合によっては、すぐに手術になるかもしれないから」
 その言葉を聞いて僕は何も言えなかった。待合室のイスに座り、ただ呼ばれるのを待つしかなかった。カチコチカチコチ・・・・と壁に掛けられた時計の秒針がやけに耳に付く。待つ時間はひどく長く感じてしまう。
 「どうぞ、入ってください」
 僕が中に入るとチビは診察台に横になり、酸素マスクが付けられていた。チビと名前を呼ぶと動かない体で必死になって僕の所に来ようとしていた。
 「先生・・・チビは・・・」
 「やはり車に轢かれたようですね・・・出血もひどいし、何より体の下半分が・・・グチャグチャで・・・これから手術をしても、手術に耐える体力がないでしょう。脈も薄くなってる。点滴等の処置が今のこの子には精一杯です」
 「そ、そんな・・・チビは・・・点滴・・・点滴で体力が戻れば手術をしてもらえるんですよね?手術をすれば、チビは治るんですよね?ね、先生?!」
 「・・・そう・・・ですね」
 先生は僕を見ずに答えた。
 点滴の針を刺された時、痛かったらしくチビは少し耳を動かした。
 「大丈夫だからな。何も心配しなくていいからな」
 僕が笑って見せるとチビは口を動かしただけで声にはなっていなかった。
 「注射をしますから、ちょっといいですか」
 注射針を刺されたチビはまた少し痛そうな素振りを見せた。
 「わかりますか?痛みに対する反応も、もうこれくらいなんですよ」
 先生が言わんとしている事はわかったけれど、僕はそんな事は信じたくなかった。
 「点滴は30分くらいで終わりますから。はい、コーヒー。今日は特別ですよ」
 奥さんが僕と先生のコーヒーを持ってきてくれた。先生はコーヒーを飲みながらカルテを書いている。僕は淡々と落ちる点滴の傍でチビの前足を軽く握り、大丈夫だからなと精一杯の作り笑いをしていた。
 「先生・・・」
 「何ですか?」
 「もし・・・もし僕がもっと早く気付いていれば・・・チビは助かったんでしょうか?」
 「どうでしょうね。もっと早く病院に着ていれば出血を止める事はできたかもしれませんね。さっき、下半身がグチャグチャだって言いましたよね。だからといって、上半身が何でもなかったかと言うと、そういうわけではないんですよ。庭の隅で見つけたんでしたっけ?」
 「・・・はい」
 「庭の隅は車が通る場所ですか?さすがに人の家の庭は車は通らないでしょう?」
 「はい」
 「倒れていたすぐ近くで轢かれたのかもしれないけど、その子がどうやって庭の隅まで移動できたのか不思議なくらい。そんな状態なんですよ。猫は自分の死に際を飼い主には見せないもんだって、うちのじいさんが言ってましたけど、その子はどうしてもあなたの所に帰りたかったんでしょうね」
 先生は僕に優しく笑いかけてくれた。
 「ほら、私の方なんか見てないで、その子を見ててあげなさい」
 僕がチビの方に向き直るとチビの目はほとんど開いていなかった。チビ、と呼びかけると少し目を開け、鳴いて返事をしようとするが声になっていない。僕はチビの前足を握り、笑いかけてやる事しかできなかった。
 「がんばれよ、チビ」
 声を掛ける度にわずかに耳を動かし、目を開こうとする。点滴が終わり、先生がチビから点滴の針を外した。
 「先生、連れて帰っても・・・いいですか・・・?」
 「いいですよ。その方がこの子もいいでしょう」
 傍においてあったバスタオルを手にすると、奥さんがちょっと待ってと新しいバスタオルを出してきた。
 「汚れてるから、こっちの使って。そんな湿ったバスタオルじゃ可哀想よ」
 チビをくるんできたバスタオルは、チビの血で染まり濡れていた。
 「すみません。ありがとうございます」
 「今日だけよ。今日は特別」
 「チビ、早く家に帰ろうな」
 僕は先生と奥さんに頭を下げ、病院を出た。
 
 
 
 
 
 
 

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