「お母さんね、今日買い物に行ったら、奥さん若いですねぇって言われちゃった」
「どうせお世辞だろ」
「そんな事ないわよ。大学生の息子がいるって言ったら、本当にびっくりした顔してたもの」
「ああ、そう」
「あんたもね、結婚相手はお母さんみたいにいつまでも若くてキレイな子にしなさいよ」
「はいはい」
「女を見る目はちゃんと養いなさいね。お父さんは女を見る目があったから、あんたにも遺伝してくれればいいけど」
「は?」
「だって、お母さんを選んだくらいだもん、見る目あるでしょ?」
こんな話をしたのは何日前の事だろう?そんなに前の事じゃなかったよな。
父親の事はいつ話そう。何て話せばいいんだろう。
入り口側の電気しか点けていない病室は薄暗かった。日の落ちきった空は夕方から夜へのグラデーションを奏でていた。
僕はその空をずっと見ていた。キレイな空なのに、空だとしか思えなかった。次第に夜になっていく。小さな星がチカチカと輝きだした。
ずっと空を見ていると窓という枠が消え、空に吸い込まれていくような感覚になる。そして、見回りの看護婦さんと機械音が自分を失くしそうになる僕に
ここは病室だ、と教えてくれる。そんな事を何度か繰り返し、夜は朝を迎えようとしていた。明るみ始めた空のグラデーションは、夜へ向かう
ようなセンチメンタルさはなかった。
「うっ・・・」
母親が眉間にシワを寄せた。意識が戻ったらしい。
「母さん?」
母親は焦点の定まらないような目で僕を見た。きっと何が起こったのかわからないのだろう。
「空、すごくキレイだよ」
ゆっくりとベッドの右側にある窓に目を向けた母親は、僕に視線を戻し少し笑った。僕も母親を見て、笑って見せた。
そして、母親は目を閉じた。
「母さん・・・?」
断続的に鳴っていた機械音はピーッと継続的なものに変わった。音を出している器械を見ると、モニターに一本の横線が引いてあった。
何度かTVで見た場面。医学と無縁な僕にも、この器械の意味するものが理解できた。
「母さん・・・母さん・・・母さんっ!」
母親は何の反応もしない。ほんの少し前に僕を見て笑ったのは、僕の想像だったのだろうか。
動転しながら病室のドアを開けると、少し離れた所を歩いていた看護婦さんが2人僕の様子に気付き、どうしました?と駆け寄って来た。
「あ、あの・・・母さんが・・・母さんが・・・」
病室に入った先輩らしき看護婦さんが早く先生をっ、ともう1人の若い看護婦さんに言っていた。すぐに手術室の前で話をした男の先生が走ってきた。
その後ろを銀色のワゴンを押したあの若い看護婦さんがついてきた。
2人の後に僕が病室に入ろうとすると、こちらでお待ち下さいとドアを閉められてしまった。僕は閉められたドアの前に突っ立っていた。中からは3人の
話し声が聞こえるが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
母さん・・・・
僕がそう思った時、ドアが開いた。
どうぞ、と中へ呼ばれ僕は母親の傍に行った。
「さっき・・・意識が戻ったみたいで・・・僕を見て笑ったんです・・・」
そうですか、と母親の顔を見ていた先生は僕を見た。
「大変残念ですが・・・・」
僕はその先の言葉は聞きたくなかった。
「・・・わかりました」
「こちらとしてもベストは尽くしましたが」
「いえ・・・いろいろと・・・ありがとうございました」
何の感情もないまま、僕は先生に頭を下げた。先生が病室を出たあと、看護婦さん達がガチャガチャと片づけをしているのを僕はボーっと見ていた。最後まで
病室に残っていたのは、若い看護婦さんだった。
彼女が、失礼しますと僕と目を合わせないようにあいさつをし病室を出て行く時、やっと僕の体が動いた。
「あ・・・あの・・・これからどうすれば・・・?」
「いろいろ手続きなんかがありますが・・・ご親戚の方に連絡された方が・・・私、この科に来て間もなくて・・・何て言っていいか・・・」
彼女は最初だけ僕の顔を見ていたが、下を向いて途切れ途切れに話していた。
「・・・いいえ・・・いろいろとありがとうございました」
僕が彼女に頭を下げると、彼女は気まずそうに失礼しますと病室を出て行った。
全てが古いモノクロームの無声映画のようで、どこまでが現実なのか、全てが現実なのか頭の中ですぐには整理がつかなかった。ようやく昨日からの事は全て現実に起こった事
なのだと理解し始めると、すごい勢いで吐き気がしてきた。トイレで吐くに吐けない僕の様子を見かけた見知らぬ患者さんが看護婦さんを呼んできてくれた。少し休みましょう、と
僕はベッドに連れて行かれた。一度僕の傍を離れた看護婦さんが、点滴をしますからその間だけでも休んでくださいねと僕と透明な液体の入ったビニール袋を繋いだ。
1滴1滴と落ちる、おそらく栄養剤だろうその液体を見ているうちに僕の感覚は薄れていった。
父親と母親の実家に電話をしたり、書類を書いたりして僕が家に帰って来たのは夕方だった。
灯りをつけると、手つかずのおにぎりがダイニングテーブルの上で僕を待っていた。それを見て、僕は泣いた。
葬儀の日は、あの日と同じように雲一つない青空だった。近くに住む叔父たちが何から何までやってくれて、僕がした事は父親の会社に事故の事を伝えたのと、卒論のゼミの教授に
事情を話し、次のゼミは休むと連絡したくらいだった。
全てが淡々と秒針のように進んでいくような感じだった。
親より先に逝くなんて・・・と祖母は号泣していた。顔色が良くないけど、大丈夫?と声を掛けてくれる叔母に僕は、うんと笑ってうなづいた。
天気が良くてよかったなと僕は空を見て思った。
全てが終わり、叔父達と家に戻った。叔母がお茶を入れ、僕はトイレに行く振りをして外に出てタバコを吸っていた。青空にはもう月が出ていた。
玄関前でタバコを吸っていた僕の所に見知らぬ親子連れがやってきた。
「ご家族の方ですか?」
そうですが、と答え僕はタバコを消した。母親の知り合いだろうか?
この度は・・・と言うと男の人が急に土下座をして謝りだした。
「すみません、すみません、本当にすみません。うちの息子が犬のリードを放したばっかりに・・・」
男の子を挟んで左側に立っていた女の人も同じように地面に膝をついて頭を下げた。ほら、ちゃんと謝ってと男の子の頭を後ろから押していた。
「お兄ちゃん・・・ごめんなさい・・・」
男の子は目に涙を浮かべながら、小さな声で僕に言った。
ああ、警察の人が言ってた急に道路に飛び出した犬の飼い主か。
「もう顔を上げてください。事故、それだけですよ。お願いですから立ってください。僕も何て答えていいかわからないから・・・」
2人は立ってくれたが、下を向いて泣いていた。男の子も下を向いたままだった。
僕はしゃがんで男の子と目線を合わせた。
「犬の名前はなんて言うの?」
「ジョイ・・・楽しいっていう意味なんだって。パパがつけてくれた・・・」
「ジョイ、か。いい名前だ。これからもたくさんジョイと楽しい事をするだろ?だから、ジョイの事はちゃんと見ててあげないと、な」
僕が笑うと男の子もやっと少しだけ笑ってくれた。
それから3人はまた僕に頭を下げて帰って行った。
父親と母親と息子。うちと同じだな。
帰って行く3人の後ろ姿を見て、僕は小さかった頃の事を思い出した。
時間が経ち、いろいろと不便はあるものの僕は一人の生活に慣れていった。時々、彼女と言うべき女の子が来て掃除など母親がこなしていた仕事をしてくれていた。
3人で暮らしていた時もうるさい事は何も言われた事がなく、気ままな学生生活をしていたが、今はそれ以上に誰にも何も言われない。言ってくれる人もいない勝手気ままな生活。
どこにでもある一戸建てのこの家は、近所の家と比べて別段広いわけではない。親子3人、大人と言える年格好になった僕がいても十分に暮らせる広さ。そんな家だ。
でも、1人で住むには広すぎる。家の中の半分以上は使っていない部屋だ。
彼女が掃除をしてくれるおかげで、リビングは母親がいた頃と変わらないような様子でいる。変わらないものがあるのに、僕は1人でここにいる。夜帰って来ても、当然灯りがついていない。僕が声を出さなければ、誰の声もしない。
時間はいろいろなものを消化していってくれたけれど、この家の、僕たち家族の家という匂いだけは残してくれていた。
僕は冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。
「冷蔵庫からビールを出す仕草。さすが親子ね、そっくり」
母親の言葉を思い出した。僕と父親の好きなビールは同じ銘柄。親子、か。僕はビールの缶を見て、ふふっと笑った。
特に問題もなく大学を卒業し、会社の新人研修が終わり1週間が経った頃、配属の内辞が出た。僕の配属先は家から電車で3時間以上も揺られて行く所だった。そこには僕を含めて4人が行く。一応、期間は1〜3年らしい。
マジかよ、と肩を落とす同期を横目に、もっと遠い所に行くヤツもいるんだから僕はまだましなのかなと、それだけだった。
上司が僕たち4人を呼び、どうしても1件だけ間に合わなくて・・・公平に決めてくれと何かプリントされた紙を数枚よこした。それは配属先での僕たちの部屋の間取り図だった。どれも似たような間取りだったが、1つだけやけに広いものがあった。
築40年 木造平屋造り 庭付き
それから約2週間後、僕はその古い一戸建ての家に引っ越した。今まで住んでいた家とは全く違ったが、少し前まで誰かが住んでいたような雰囲気は僕にはどこか懐かしいものだった。
僕たちのあの家は、近々結婚するいとこに僕の地方勤務が終わるまでという条件で貸す事になった。全然知らない人に貸すよりはいいけれど、家の匂いが変わってしまうのかと思うと淋しい気もした。僕たち家族のあの家、父親と母親と僕、そしてナナの
家は昔のままでいてほしかった。
会社での人間関係もうまくいき、古い貸家である僕の家がみんなのたまり場になっていた。1人暮らしなのに洗面所には歯ブラシが3本も立っている。
先輩や上司、地元採用の同期たちに仕事帰りの息抜きの場所を教えてもらい、僕はそれなりに楽しい社会人生活を送っていた。
その日、僕たちは特に理由などなかったけれど課の全員で飲みに行く事になっていた。みんなが酒の席を一緒にするのは、歓迎会以来かもしれない。
僕の両隣には仕事上の表面的なつきあいしかない先輩が座っていた。何を話していいかわからず、適当に話をあわせる程度だったが気さくな人たちだとわかると僕から話を振るようになっていた。自分でも気付かないうちに僕の中には、相手から一歩引いてしまう
偏見のようなものがあったのかもしれない。でも、それはもうすっかり消えていた。
うち解けていけば当然話はプライベートな事になっていく。僕が両親の話をすると、先輩たちは黙ってしまった。
「暗い話ですよね、すみません」
「お前はもう大丈夫なのか?」
「平気、ですね。いつかはみんな死ぬわけだし」
「そうか・・・ま、困った事があったら言え。金はないけどな」
「その時は宜しくお願いします」
「一緒に仕事をするようになって間もないけどさ、オレ達みんな仲間だろ?オレ、体育会系だからそういう響き好きなんだよね、へへへ」
「こいつ、マジで体育会系だから部屋にベンチプレスがあるんだぜ」
「おう、腹筋もちゃんと6つに割れてるんだから。見るかぁ?」
店をハシゴして1時近くまで飲んでいた。今僕がいる場所から家まで歩いて1時間はかかる。タクシーを拾うか迷ったけれど、気分もいいしと僕はそのまま歩き出した。満月に近い月は柔らかな光で僕を照らし、アスファルトには僕の影がくっきりと出ていた。
途中、自販機でお茶を買い、自販機に寄りかかってその月を見上げた。
今日は楽しかったなと僕は1人で笑っていた。オレ達、みんな仲間だろ、という先輩の何気ない一言が何だかすごく嬉しかった。僕は短気な方ではないけれど、本気で誰かに腹を立てた事がないような気がする。あの事故にも、家族がいなくなってしまった寂しさと喪失感だけで
怒りという感情は起こらなかった。冷めているのか、穏和なのか、ビミョーだなと自分でも思う。それは今まで僕の周りには、いい人しかいなかったからかもしれない。きっと今もそうなんだと思うと意味もなく口許が緩む。
飲み終えた缶をゴミ箱に捨て歩き始めてしばらくすると、どこからか仔猫のような鳴き声が聞こえてきた。辺りを見回しても猫の姿はない。住宅地の中を歩いているのだからどこかの家の猫が鳴いているのだろうと、僕はあまり気にしないように歩いていた。
だが、僕が前に進むにつれ鳴き声は大きくなっていく。どこだ?とまた見渡すがその姿は見えない。ナナと出逢った時の事があるせいか、僕は犬や猫の鳴き声がひどく気になる質だった。僕の右側にある壁の向こうから聞こえてくるような気もする。
壁の向こうは人様の家だから探しに行くわけにもいかないな、と角を曲がると鳴き声はすぐ近くから聞こえてきた。
ここか?と停めてあった車の下をのぞき込むと声の主はいた。声の主はあの時のナナと同じように、その小さな体のどこから出てくるのだろうというくらい大きな声で何かを叫び続けていた。
どうした?と僕が声を掛けると声の主は少しだけ黙り、僕はあの日の事を鮮明に思い出した。1人で紙袋の中で鳴いていたナナ。急に怒り出した母親。痛いくらいに掴まれた手・・・。今の僕には父親が言ってくれたように母親が怒りながら言ったあの言葉の意味、あの時の母親の気持ちがわかってやれる。
「ほら、こっちおいで。出てこい」
僕が車の下に手を伸ばすと仔猫は恐る恐る出てきて、僕の顔を見てまた大声で鳴きだした。
「お前、1人なのか?声、掛けちゃったしな・・・一緒に帰るか」
僕は仔猫を抱き上げ、また歩き出した。
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