夢を見た。
場所は多分近所の公園。温かい日射しの中、僕は女の子とベンチに座っていた。
「ずっと一緒にいれたらいいなって思ってた」
彼女は前を向いたままそう言った。僕は何と返事をしていいかわからず、黙ったままだった。
「ね、もし今度生まれ変わったら、私の事を探してくれる?」
とても唐突な問いだった。また僕は返答に困り、彼女の横顔を見つめたままだった。
彼女は僕の方を向き、にっこりと笑った。陽に透ける彼女の髪はとてもキレイな栗色をしていた。
「嘘でいいから、うんって言ってよ。相変わらず、まじめね」
僕も彼女の笑顔につられて笑った。
「うん、探すよ」
「ありがとう。嘘でも嬉しい」
そう言って彼女は青い空を見上げた。
「おんなじ」
彼女は右手を上げた。その手首には革製の空と同じ色のブレスレットがあった。小さな鈴のような物がついている。鈴のような音がしたから、きっと鈴なんだと思う。
それは全然洒落っ気のないブレスレットで、ブレスレットというより腕輪と言った方がいいような感じだった。
でも、僕はそれに見覚えがあるような気がした。
「約束よ」
「え?」
彼女はまた僕に向き直り、僕の手を握った。
「約束。私を探してくれるって言ったじゃない。忘れないでよ。忘れてたらどうしようかな」
彼女の口調は少しふざけていたが、強く握られた手から彼女の切実な想いが伝わってきた。僕は重なり合った2つの手をぼんやりと見ていた。
そして、僕の上にある彼女の手を温かいと思った。
「見つけられるかわからないけど、探すよ」
「ありがとう。そう言ってもらえただけで十分」
彼女の声は涙声に変わっていた。僕の手を強く握ったまま、何かを確認するかのように彼女は目を閉じた。それから、まっすぐ僕の目を見て子供のように微笑んだ。
夢はここで終わり。目が覚めた僕はベッドの上で今見た夢の事を考えていた。
最後に彼女の顔を見たはずなのに全然覚えていない。だいたい、彼女は誰だったんだろう。知っているような気もするけどわからない。フシギな夢だ。そんな事を考えながらぼんやりしていると階下から母親の声が聞こえてきた。
「早く起きないと、遅刻するわよ」
時計を見ると、起きなければならない時間を15分も過ぎている。着替えてリビングに行くと朝食を終えた父親がコーヒーを飲んでいた。
「いい気なもんだな、大学生は。人生そんなに甘くないって、このおバカな大学生に教えてやれよ、ナナ」
ナナはニャーンと鳴いて僕を見上げた。
僕は自分の席に着き、コーヒーメーカーからコーヒーを注いだ。
「さてさて、優雅な大学生さんの学費のために今日も一日がんばりますか」
父親は残りのコーヒーを一気に飲んで、行ってきますとリビングを出た。僕は玄関先での父親と母親のやりとりを耳にしながら、ナナが毛繕いをするのを眺めていた。
「ほらぁ、食べるんだったらさっっさと食べて学校に行きなさい」
いつの間にか母親が僕の後ろに立っていた。
「コーヒーだけでいいや」
「そうなの?今日のオムレツはいい出来だったのに。じゃ、お母さんもう1こ食べちゃおうっと。ナナも食べる?」
コーヒーを飲み終え、自分の部屋に戻り授業のテキストをバッグに詰め込んでいると後ろでニャアとナナの声がした。僕の部屋のドアはナナが出入りできるよう、いつも少し開けてある。
「ん?どうした?お前、あんまり無理するなよ、年なんだから。階段大変だろ?」
僕はバッグを肩に掛け、ナナを抱いてリビングへ戻った。コーヒー片手に新聞を読んでいる母親にナナを渡し、僕は家を出た。
電車の中で何となく今朝の夢を思い出していたが、駅に降り立ち友達に会うとすっかり夢の事など忘れてしまった。
それから数日、その日僕はバイトがあり家に帰ったのは10時半を過ぎていた。
「ただいま。腹減ったよ、早くメシ・・・・」
リビングに入ると母親の泣きはらした目と目が合った。
「ちょっと何?!どうしたんだよ?」
僕はとても焦った。ドラマや映画を見てよく泣く母親だったが、それ以外に泣いているのを見たのは祖父が死んだ時だけだったのだから。
僕の顔を見ると母親はまたしゃくり上げて泣き始めてしまった。僕はどうすることもできず、突っ立ったままだった。父親とケンカでもしたのだろうか。帰っていてもいい時間なのに父親の姿はなかった。
「ただいま。参ったよ、残業でさ。母さん、ビー・・・・ル・・・・」
片足をリビングに踏み入れた状態で父親の動きは止まった。振り返った僕に父親は、どうした?と目で訊いてきたが僕には何の見当ももつかないので首をかしげるしかなかった。
「今日ね・・・・」
母親がしゃくり上げながらやっと話し始めた。
「アンタの布団を干したから・・・・午後、取り込むのに部屋に行ったの・・・・そしたらナナが・・・・いつものように枕元にいて・・・・ここ最近、ずっとそこにいるから・・・・いつもみたいに・・・・
どいてちょうだいって言ったの・・・・でも・・・・ナナ起きなくて・・・・また、ナナどいてちょうだいって声掛けたのに・・・・やっぱり動かなくて・・・・そしたら・・・・ナナ・・・・死んでた」
母親は何度もしゃくり上げ、これだけ話すのに少し長い時間を費やした。
「寿命だったんだよ」
父親が静かに言った。
「ナナがここに来て何年になる?仕方ないんだよ。この前母さん言ってただろ。最近、ナナの昼寝の場所がリビングのソファから2階に変わったって。多分・・・ナナには分かってたんだよ。自分がもうすぐかもしれないって。
だから、自分の一番居心地のいい場所にいたかったんだよ。大切な家族が1人いなくなった事は哀しい事だけれど、ナナの死はナナのせいじゃない。仕方のない事なんだ。母さん、もう泣いちゃだめだ。母さんが泣いてたら、
ナナは自分が悪い事をしたと思って安心して眠れないよ」
「お父さんの言ってる事はわかるけど・・・・でも・・・・でも、ナナはもういないのよ。呼んでも返事をしてくれないのよ」
「母さん、その気持ちはよくわかるよ。淋しいのは母さんだけじゃないんだから。それに、一番淋しい思いをしてるのはナナじゃないかな。自分だけ離れなきゃいけないのは、すごく淋しい事だからね」
母親は父親の言葉に納得したのか、うんうんとうなづいていた。
「腹減ったか?ラーメンでいいよな?作ってやるよ」
スーツの上着をイスに掛け、父親は2人分のラーメンを作り始めた。出来上がったラーメンをビールを水代わりに食べた。その間、僕たち3人は一言も口をきかなかった。
母親の方をそっと見ると、ソファに座ったままじっと動かず、時折目を閉じて溜息をついていた。
「父さんが作ったんだから、洗い物はお前がやれよ」
「ああ、わかったよ」
「母さん、ナナは?」
「・・・・どうしていいかわからなくて、まだ枕元に寝かせてあげてる」
「そうか。お前の帰りを待ってたんだろうから、今日は一緒に寝てやれ」
死んだ猫と一緒に寝る。人が聞いたら気味悪がるかもしれない。でも、僕は父親が言った事に何の抵抗も感じなかった。
洗い物を終え部屋に行くと、ナナがいた。いつもの昼寝のように丸くなっているナナは、死んだと言われなければ寝ているようにしか見えなかった。
僕はベッドに腰を下ろし、ナナの頭をなでてやった。ナナは冷たくて、固くなっている。
死後硬直ってヤツか。
僕は肩で大きく息をついた。
ナナがここへ来たのは、僕が小学校1年の時だった。
ある日曜の夕方近く、僕と母親はスーパーへ買い物に行った。帰り道、どんよりとした空からパラパラと小粒の雨が落ちてきて、僕と母親は家路を急いでいた。数m先の電柱の足許に紙袋がおいてあった。確かスーパーに行く時にはなかったと思う。
それに近づくにつれ、その紙袋が動いているのに僕は気付いた。中を覗くと仔猫が1匹、袋の中に入っていた。そして、その小さな体のどこから出てくるのだろうと思うくらい大きな声で鳴いている。
「ママ、ちっちゃい猫がいるよ」
「いいから、帰るわよっ」
「でも・・・・雨が降ってきてるし、この猫、濡れちゃうよ・・・・」
突然の母親の剣幕に僕は、おずおずと答えた。
「いいからって言ってるでしょっ!いい?うちでは飼ってあげられないの。優しく手を伸ばしてあげて、ごめんね、バイバイって言うの?ここに捨てられて、やっと誰かが来たと思ったらまたバイバイ?飼ってあげられないなら、最初から優しくしないのっ!
その方がよっぽど優しいのよ。1人でここに置き去りにされて、今度はあんたが飼ってあげられないからって伸ばした手を引っ込めるの?その子は何にも悪い事をしてないのに、2回も捨てられる事になるのよ。帰るわよっ」
母親の口調はどんどん強くなり、僕は無理矢理強く手を引かれ家に帰った。僕には母親がどうしてそんなに怒っているのか、全くわからなかった。
家に着いてからも僕と母親は、どちらも口をきかなかった。母親は黙々と買ってきたものを片づけ、僕はTVをつけ黙ってそれを見ていた。雨足は次第に強くなり始めていた。
「ねぇ・・・・ママ、買い忘れた物があるからもう一回スーパーに行ってくるね。もう少ししたら、パパが帰ってくると思うから1人でお留守番しててくれる?」
「うん、いいよ」
母親はいつもの母親に戻っていて、僕はほっとした。母親が出掛けてしばらくすると、父親がゴルフから帰ってきた。
「ママは?」
「もう一回、スーパーに行ったよ」
父親は冷蔵庫から缶ビールを出し、僕の隣りに座った。
「どうした?」
僕の様子に気付いたらしく、父親が訊いてきた。僕は買い物の帰り道の出来事を父親に話した。父親はビールを飲みながら、うなづいて僕の話を聞いてくれていた。
「そっか、そんな事があったのか。お前が小学校に入る時、この家に引っ越して来たよな。この家に引越てくるために、パパとママはがんばったんだよ。当然、これからもがんばらなきゃいけない。猫ってさ、爪があるから引っ掻いたりするだろ?
まだお前にはわからないだろうけど、大人になったら今日のママの気持ちがわかるようになるよ。だから、ママの事悪く思っちゃだめだぞ」
僕が黙ってうなづくと、父親は僕の頭に手を乗せ、よし、いい子だと笑っていた。外はどしゃ降りに近い雨だった。
それから少しして母親が帰ってきた。
「もう、すごい雨で傘をさしてたのに濡れちゃったわ」
母親の手にスーパーの袋はなく、その代わり、あの仔猫を胸に抱いていた。
「ママ・・・・」
「やっぱり、連れてきちゃった。こんな小さな子を放っておけない。お願い、パパ、いいでしょ?ほら、あんたからもお願いしなさい」
「ね、パパ、ちゃんと面倒みるから。引っ掻かないように教えるから。ね、お願いだよ、パパ」
「何だよ、2人して。パパは何も言ってないだろ」
父親が母親の腕から仔猫を抱き取った。
「何だ、お前、こんなに濡れてボロ雑巾みたいだな。ママ、病気してるといけないから、明日病院に連れて行ってやれよ」
「うん。ありがとう、パパ」
母親は、本当に嬉しそうに笑っていた。お?お前、女の子かと父親はミャアミャア鳴く仔猫を抱っこしていた。
これがナナと僕たちの始まりだった。それから14年。ナナはずっと僕たちの家族だった。不用意に爪を立てる事もなく、本当にいい子だった。そして、いつも僕と一緒に寝ていた。
部屋で1人、悔し涙を流した事、落ち込んだ事、親には話したくないような僕の事をナナだけは知っていた。
いつも一緒だったんだよな、ナナ。
僕は、ありがとう、という気持ちでナナの頭をなでていた。
ナナがいなくなって1年。僕たちに新しい家族が増える事はなかった。
僕は就職も内定し、残るは卒論だけという気楽な学生生活を送っていた。
昨日は夏を過ぎてもなかなか内定が取れなかった最後の1人に内定通知が届いたお祝いと称し、朝方近くまで飲んで帰ってきた。目が覚めた時はお昼を過ぎていて、リビングに行くと誰もいなかった。
ダイニングテーブルにはおにぎりが作ってあり、お父さんと買い物に行ってきます。お昼はこれ食べて、と母親のメモが添えてあった。
たっぷりと残るアルコールの余韻ですぐに食べる気にはなれず、とりあえず熱めのシャワーを浴びた。それでもその余韻は残り、だるい体をソファに横にしておもしろくもないTVを見ていた。
少しずつ空腹感が出てきたけれど、胃がムカムカして何も食べたくなかった。
ソファでウトウトとし始めた時、電話の音に叩き起こされてしまった。何だよ、と不機嫌に電話に出ると警察からだった。
助手席に母親を乗せた父親の車が事故を起こしたという。二日酔いの僕の頭ではうまく理解できず、どういう事ですか?と聞き返した。
「事故を見ていた人の話ですが、道路に犬が飛び出してきてそれをよけようと急ハンドルを切ったようなんですね。そのハンドルを切った先に歩行者がいまして、また咄嗟にその歩行者をよけようとして・・・・
民家のブロック塀に正面衝突です。××総合病院に運ばれましたので、いらしてください」
「・・・・はい」
「くれぐれも気を付けて来てくださいよ」
静かに電話を切った僕は、頭が回らないのに心臓だけはやけに早く動いていた。
病院・・・・行かなきゃ。
着替えて大通りまで歩いた僕はタクシーを拾い、病院へ向かった。
受付で教えてもらった手術室の前のベンチに座り、僕は手術室のドアが開くのを待っていた。そして、さっきの電話で言われた事を思い出していた。
犬をよけて、人をよけて・・・・親父らしいな。それにしても、2人は無事なんだろうか。
どれくらい時間が経ったのだろうか、時計を忘れてきた僕には時間の感覚がなかった。やっと手術室のドアが開き、中から薄緑色の服を着た男の先生が出てきた。
「あ、あの・・・・」
「ご家族の方ですか?」
「はい」
「お母様の手術は今終わりました。手術自体は成功と言えます・・・・ただ、非常に危険な状態です。意識不明の状態で運ばれてきて・・・・正直、今息があるのが奇跡としか言いようのない重体です」
「・・・・はい。あの・・・・親父は・・・・」
「お父様は・・・・ほぼ即死だったようです。救急隊が現場に到着した時点で心肺機能は停止状態との事で・・・・他の医師が蘇生を試みましたが回復はなく・・・・」
僕には先生の言っている事が聞こえていたが、全く現実味がなかった。
「母の事・・・・宜しくお願いします」
僕にはその一言を言うのが精一杯だった。
「最善を尽くします」
母親は手術室から病室へ移された。ベッドの周りにはTVでしか見た事のない器械が並んでいて、母親の体に繋がっていた。ピン・・・・ピン・・・・と断続的に一定の間隔で鳴る器械音が病室に響いていた。
母親の頭には包帯が巻かれ、左アゴにはガーゼが貼られてある。
キズが残ったら、気にするかな。
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