天使がいた夏 5

 バニラの甘い香りが立ちのぼるコーヒーが僕の前に置かれた。
 「でも、ちょっとシャクだな」
 「何が?」
 「一緒に散歩に行ってどんな話をしたか知らないけど、彼の話も出たんでしょ?」
 「そうだね。ブルーがいなくなった話とか」
 「それに最初に享に名前の話もしたでしょ。昔は誰にでもよく話してた事なんだけどさ。でもあの子ね、彼が死んでからほとんど彼の話をしなくなったの。 私も侑羽が自分の事を責めてるんじゃないかって思ってからは、あまり口にしなくなったけど。でもそれって淋しくない?彼はもういないけど、私は侑羽にとって最高の父親だったと思ってるわ。 なのに、タブー扱いだなんて」
 僕はバニラの香りをとても切なく感じながらコーヒーを飲んだ。
 「いつか、時間が経てば変わるかもしれない。でも、それは・・・・あの子が自分を責める事を終わりにしないと。私が終わりにさせなきゃいけないのかもしれないけどね。なのに、あなたには 侑羽の方から彼の話をした。何か、ちょっと悔しいな」
 彼女は少し上目使いで僕を見た。僕は黙ってタバコを差し出すと、彼女は、うふふと笑って受け取り火を着けた。
 「何か、通じ合うものがあるのかしらね」
 「男同士だからさ」
 「何それ?私はあの子の母親よ」
 彼女は怒ったように口唇を少し尖らせてみせた。
 「でも・・・・享ならあの子を変えられるかもしれない」
 「それはどうかな。わからないよ」
 「今回私がお願いした事とは別に、暇があったらまた侑羽と遊んであげて」
 「そうだね。男同士の友情を深める事にするよ」
 「そうしてちょうだい。あ、こんな時間。もう少ししたら侑羽が起きてくるかな?急いでタバコを吸わなきゃ」
 彼女はいたずらっ子のように笑った。笑顔は何年経っても変わらない。
 それから少しして、侑羽が起きてきた。その頃には彼女が吸った消し方の違うタバコは既に灰皿から姿を消していた。
 「タバコ吸った?」
 「うん。侑羽はタバコの匂いはキライだった?」
 「あんまり好きじゃない。だから、パパも外で吸ってた。あ、パパと同じタバコだ」
 父親の話をする侑羽を彼女はじっと見つめていた。


 僕と侑羽がブルーのブラッシングをしていると、夕食の支度をしていた彼女が声を掛けてきた。
 「ねぇ、すごく申し訳ないんだけど、お使い頼んでもいい?」
 「別にいいけど」
 「明日の朝食のパンをさっき買うの忘れちゃって。侑羽、いつものパン屋さんだから行けるよね?」
 「平気だよ」
 「ごめんね、2人とも。よろしくね」
 ブルーにもう一度散歩に行けるぞ、と声を掛けると僕たちの会話を理解しているのか、ワンワンと喜んでいた。
 夕方の日射しを背中に僕たちは歩き出した。少し歩いた所で、白いTシャツを着た男の子が道路の向こう側を歩いていった。侑羽は振り返ってその子の背中を見ていた。
 「友達?」
 「ううん。あの子は小学校の3年生だから。前に公園でサッカーをやった事はあったけど」
 「振り返って見てたから、友達なのかと思ったよ」
 「ねぇ、僕がさっき汚しちゃったTシャツ、キレイになるかな?」
 「ああ、お昼に汚したヤツか。どうかな、すぐに洗っただろうからキレイになってると思うけど。あれは、侑羽のお気に入り?」
 「エンジェルウィングって、天使の羽って意味なの?」
 「うん。まぁ、そうだな」
 僕は侑羽の質問に答えたのに、侑羽は僕の質問には答えなかった。Tシャツ、エンジェルウィング・・・・恐らく汚してしまったTシャツは、ご主人が侑羽に買ってあげたものだろう。 そう言えば、背中に丸みを帯びた字体の英語と羽が描いてあったような気がする。僕は少し前を歩く侑羽の背中を見つめながら歩いた。
 あそこがシロヤマパンだよ、と侑羽が指を差した。彼女の車で来た時は気付かなかったけれど、クリーム色のこぢんまりとしたかわいい店だった。どうやら焼き立てのパンがあるらしく、いい匂いがここまで届いてくる。
 「あそこのパンで、侑羽が好きなのは何?」
 「メロン・メロンとオレンジワッサン」
 「どういうの?」
 「メロンのクリームが入ったメロンパンとオレンジが入ってるパン。でも、全部おいしいよ」
 「そっか、じゃ、それも買って行こう」
 店に入ると焼き立てのパンの匂いが一層購買意欲をそそってくる。
 トレイに頼まれたパンと侑羽の好きだといったパンを2こずつ。そして、彼女の好きそうなパンを乗せた。彼女の好きそうなものは、僕の曖昧な記憶に頼るより侑羽に聞いた方が確実だったと支払をしている時に気付いた。
 店を出て、繋いでおいたブルーのリードをほどいていると、店のご主人らしき男性が出てきた。
 「これ、よかったらワンちゃんに。サンドウィッチを作ると食パンの周りがどうしても残っちゃうから。全部おいしく作ってるんだけどね。今朝焼いたものだから、どうぞ」
 「いいんですか?ありがとうございます。よかったな、ブルー」
 袋を受け取ると侑羽もありがとうございます、と頭を下げた。
 「おじさん、毎日がんばっておいしいパンを作ってるからまた来てね」
 そう言って、ご主人は笑って店に戻って行った。
 お手伝いをするといい事あるな、と侑羽に言うと、侑羽も少し笑ってうなづいた。僕は彼女が言っていた侑羽が笑う事や楽しいという感情を抑えているという言葉をふと思い出した。
 何度か角を曲がり夕日を正面に浴びた時、僕は少しだけ意を決して侑羽に言った。
 「なぁ、侑羽。8月にママが泊まりで仕事に行く時、僕と一緒に留守番しようか?」
 「え?!」
 侑羽は本当にびっくりしたようで、目を丸くして僕の顔を見た。
 「僕が侑羽の家に泊まりに来るよ。僕じゃ嫌か?」
 「別に嫌じゃないけど・・・・」
 「今、急に言われても困るだろうから、考えておいてくれよ。近いうちに電話をするから、その時に返事をくれ」
 「・・・・・・・・」
 「嫌なら嫌って、ちゃんと言ってくれよ、な?」
 「・・・・うん」

 「おかえり。ごめんね、お客様にお使い頼んで」
 「いや、結構楽しんでるよ。侑羽とブルーもいるし」
 「もう少しでご飯だから。あら、パンがいっぱい。お金足りなかったでしょ?」
 「さっきジュースを買ってもらったから、おあいこだよ」
 「そう?ありがとう。侑羽が選んだの、これは?」
 袋の中身を取り出して彼女は言った。
 「メロンパンとオレンジ何とかって言うのは、侑羽が好きだって言ってたから。あとは、君が好きそうなのを僕が適当に。でも、君が好きそうな物は侑羽に聞けばよかったって支払をしてる時に気付いたよ」
 「大丈夫、ビンゴよ」
 「ママと享くんは、仲がいいんだね」
 外出の後の手洗いとうがいを済ませて戻ってきた侑羽が無表情に言った。
 僕たちの元恋人同士という気安さが、父親を慕う侑羽の幼い心にキズをつけてしまったのだろうか・・・・
 返答に困っていると、彼女は侑羽の目線に腰を落とし侑羽に言った。
 「そうよ、仲良しよ。仲良しじゃなきゃおうちに呼ばないし、ママの大事な侑羽やブルーとお散歩やお使いに行ってもらったりしないよ。侑羽はあやちゃんやひなちゃんと仲良しじゃないの?」
 「仲良しだよ。でも、あやちゃんやひなちゃんはおうちに来ないよ」
 「おうちで遊ぼうって言った?」
 「言わない」
 「じゃあ、来なくても仕方がないでしょ。今度、クッキーをたくさん焼いてあげるから、お友達をおうちに呼ぼう」
 うん、と侑羽は返事をしたけれど、別に呼ばなくてもいいよ、というニュアンスが伝わってくる返事だった。
 「侑羽」
 「何?」
 「お友達ってすごくいいものよ。幼稚園から帰って来たら、お友達と遊びに行っていいのよ。前みたいにけんちゃんやしょうたくん達と公園に行けばいいのに」
 その言葉に侑羽はうつむいて何も答えなかった。
 「今日は侑羽の大好きなハンバーグよ。ブルーのお水取り替えてあげて」
 話題を変え、微笑み掛ける彼女だったが、目はとても淋しそうだった。
 ブルーの水飲みトレイを持って出ていく侑羽を確認して、僕は小声で言った。
 「侑羽に変な誤解をさせちゃったかな?」
 「打ち合わせで男の人が来たりするけど、雑談があっても当然仕事の話でしょ。享とは仕事の話がしないから、いつもと違うって思ったんじゃない。ごめんね、気にしないで」
 
 
 
 
 
 
                                  
 
 
 
 
 
 

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