「ただいま」
「随分、散歩してきたのね。手を洗ってらっしゃい。冷たいお茶を入れてあげるから」
侑羽は靴を脱いで玄関にあがると、きちんと自分の靴を揃えて洗面所に向かった。
「男の子なのに、ちゃんとしてるね」
「幼稚園で教えてて、たまにやってたの。そのたまにを彼が見かけて侑羽の事を褒めて。パパもこれからは侑羽みたいにきちんとするって。それからね、習慣付いたのは」
グラスの中の氷がカランカランと気持ちのよい音を立てた。侑羽は注がれた冷たいお茶を一気に飲んでしまった。
「侑羽、疲れたでしょ?向こうの畳のお部屋でお昼寝していいわよ」
はぁいと返事をし、侑羽はグラスをキッチンへ片づけ部屋を出て行った。
「どうだった、侑羽?」
「うーん、最初は僕が質問して、それに短く答えるって感じだったけど。慣れてきたら普通に話してたよ」
「あとは?」
「あとって?」
「何か気付いた事はない?」
「何だろう?あ、タバコいいかな?」
「あ、ごめんなさい。灰皿ね」
「吸っても平気?」
「大丈夫よ。私もたまに吸うから。侑羽には内緒だけどね」
「君が?!いつから?」
「母子家庭だとね、気持ち的にやりきれなくなる時があるのよ。侑羽が寝た後、1人でお酒を飲んでる時に吸うのよ」
キッチンから灰皿を持ってきた彼女は、1本ちょうだいとタバコに火をつけた。タバコを吸っている彼女を見るのは初めてだし、とても不思議な感じがした。
「結構、サマになってるよ、タバコ」
「うふふ、そお?話は戻るけど何か気がついたって言うか、感じた事はなかった?お姉さんはもう結婚して子供がいるんでしょ?そういう子達と比べて、どう?」
「そうだな・・・・姉さんの所は女の子だからなぁ。うーん、ま、侑羽はおとなしいよな。まだ、僕に慣れてないのもあるだろうけど」
「そうね。どちらかというとおとなしい子の方に入るかもね。あとは?」
「何だよ、さっきから。思う所があるなら、ちゃんと言ってもらわないと」
彼女はタバコの煙をふーっと吐いた。
「あまり、笑わないでしょ?あの子」
「そう言えばそうかもしれない。でもそれは、今日が初対面だからじゃないのかな?確かに笑顔は少なかったかもしれないけど」
「それはあると思うけど。でも、それだけじゃないの」
「どういう事?」
「普通の子だったのよ、前は。大声出して騒いで笑ったりしてた。でも、変わったわ。彼が死んでから」
「それは大好きな父親がある日突然、自分の手の届かない所に行ってしまったんだから、6歳の子供とは言えショックで多少は変わっても仕方ないと思うけど?」
「私もね、最初は父親を失くしたショックからくるものだと思ってたの。でも、それだけじゃないみたい」
ごめん、もう1本いい?と彼女は2本目のタバコに火をつけた。
「ほら、そこに彼と私と侑羽とブルーで撮った写真があるでしょ。彼が死ぬ少し前に庭でタイマーで撮ったの。突然の事故ですっかり忘れてて、彼の物を整理してる時にふと思い出したくらいだったの」
幸せとしか言いようのない素敵な家族写真だった。初めて見る彼女のご主人は人の良さそうなかっこいいパパと言った感じだった。
「そこに飾ってね、ぼんやり見てたの。で、ブルーと遊んでた侑羽を呼んで、この写真を撮った時の事を覚えてる?って聞いたら、急に泣きだしたの。私は彼の事を思い出して泣いたのかと思ったわ。
あの子、彼の事が大好きだったから。そしたら侑羽、ごめんね、ママ、ごめんねって謝るの。何の事だか見当もつかなくて、何がごめんねなの?って聞くと、ごめんね、ごめんね、パパって。その時わかったの。
あの子、自分のせいで彼が死んだと思ってるって」
「交通事故だっけ?」
彼女は軽くうなづいた。
「本当によくある事故だったのよ。彼、普段は車で仕事に行ってたんだけど、その日は出張の帰りでね、電車だったのよ。4時頃に駅に着くからって連絡が入ってたの。ここから駅まで10分ちょっとだから、
侑羽に散歩がてらブルーと迎えに行かせたの。侑羽たちが駅に着くより先に彼が着いてて。駅から歩き始めてた。彼、ケーキ屋さんにでも寄ろうとしたのかな、いつもの反対側の通りを歩いてた。
向こう側に彼を見つけた侑羽が道路に飛び出しちゃって。車が来てたのに気付かずにね。彼、車に気がついて咄嗟に飛び出したの。彼が侑羽の体をかばってくれたから、車にぶつかったのは彼の方だった。
スピードオーバーしてた車だったらしいわ」
ずっと灰皿を見つめたまま彼女は一息に話し、僕に視線を向けた。そして、ふっと笑った。
「確かにね、侑羽の不注意だったわ。でも、それを言うなら1人で行かせた私、駅で待っていなかった彼、3人にそれぞれ非がある事だわ。でも、事故だったのよ。どこにでもある、ただの事故。私はそう思ってる。
彼だって侑羽の事を責めてなんかいないと思う。彼ね、一度だけ意識が戻ったの。私が声を掛けると、侑羽は?って。侑羽が顔を見せたら、ケガしなかったか?って。侑羽が大丈夫って答えると、本当に安心した顔で
良かったって。それが彼の最期だった」
ごめんなさい、と彼女は目頭を押さえた。
「侑羽はね、笑わないとか笑えないじゃないの。我慢してるのよ」
「笑うのを?」
「そう。笑うっていうか、楽しいって感情を。いつだったかな、幼稚園の友達の話を侑羽がしてたの。おもしろい事があったらしくて、それでね、それでねって、彼がいた頃みたいに話してたんだけど、ふと何かを
思い出したように一瞬黙って静かになっちゃって。どうしたの?って聞いても何でもないよって。そんな事が何度かあってね。ああ、この子自分を責めて抑えてるんだって思ったの」
僕はタバコを片手に庭で昼寝をしているブルーを眺めた。
「パパが死んだのは侑羽のせいじゃないから、いっぱい笑っていいのよ。パパも侑羽が毎日楽しくしてくれたらいいなって、絶対に思ってるよって言ったんだけどね」
「そうか・・・・たまに見せる笑った侑羽が本当の侑羽って事か」
彼女は溜息まじりにうなづいた。
「でも、フシギね」
「何が?」
「だって、2人は今日が初対面なのに普通に話してるんだもん。子供ってそういうものだろうけど、あの侑羽がねって感じ」
「ブルーが吠えなかったからさ」
眉間にシワを寄せ、首を傾げて彼女は僕を見た。
「ブルーは友達になれる人には吠えないんだって。ご主人が言ってたらしいよ」
「じゃあ、享は彼とブルーに認められたって事ね」
「そういう事かな」
コーヒーを飲もうと彼女は席を立った。そして、キッチンのカウンター越しに、あとは決めてと僕の方を見て言った。
「とりあえず、相沢家の内情はこんな感じだから。あとは、享が決めて。但し、返事はなるべく早くね」
何故かしら、彼女は泡立て器で僕の方を指しながら話している。
「何なの、それ?」
「ん?ここにあったから」
「キッチンにあって然るべくだろ?」
「ま、そうね。ね、今日は夕飯を食べていって。時間は大丈夫なんでしょ?」
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