砂の城 5/6
   目が覚め時計を見ると12時近かった。
 昨夜は店の後、バイトたちと飲みに行きゆきの部屋に戻ったのは午前2時を過ぎていた。
僕はアルコールの残るだるい体を引きずり起こしリビングへ向かった。
 「こんにちわ。お昼は簡単でいい?」
 「うん。まだ、酒が抜けてない」
 「今、焼きたてのクロワッサンを買ってきたから、それにスクランブルエッグでいい?」
 「あと、コーヒーがあれば十分」
 「では、少々お待ち下さい」
 ゆきは店での僕の真似をしてキッチンへ入っていった。
 僕がだらしなくソファに座っていると、軽快な音とともに卵の焼ける匂いがしてきた。 僕はその匂いに包まれ、太陽がまぶしいなと空でじゃれあう小さな鳥たちを見て思った。
 「おまちどおさま。今、コーヒーを入れるから先に食べてて」
 生返事をし、立ち上がると僕はまぶしい目眩に襲われた。”まぶしい目眩”というものがあるのか知らないけれど、そんな感じだった。
 立ち上がった瞬間目の前が、そう、ゆきと見た9月の乱反射する波のようにきらきらとまぶしく、足元はふらついてしまった。
 倒れる!と思った僕は2,3歩踏み出し、叔母さんの趣味だというアンティークのダイニングテーブルにダンッと思い切り手をついてしまった。
 「いやっ!やめて!・・・・お願いだから、もうぶたないで!もう、やめてぇ!」
 突然、ゆきが叫んだ。ゆきの声に自分を取り戻した僕はゆきに駆け寄った。
 「ゆき?どうした?ゆき?!」
 ゆきは真っ青になって両手で口許を覆っていた。そして、ガタガタと震えていた。
僕が声を掛けても耳に入らないらしく涙目になり、下を向き頭を振っていた。大きな声でゆきの名を呼び、両手首をつかむとゆきは僕の手を振りきった。
 「お願いやめて。もうぶたないで!何でもするから、もう殴らないで!」
 一体どうしたのだろうか?とにかく落ち着かせなければと、ゆきの両肩をつかみ何度も名前を呼んだ。
 やっと、僕の声が聞こえたらしくゆきは虚ろな目で僕を見た。
 「・・・・ごめんなさい・・・・」
 「大丈夫か?一体、どうしたんだ?」
 「ごめんなさい。もう、平気だから・・・・。もう、大丈夫だから今のは忘れて。あ・・・・コーヒー入れなきゃね」
 力を抜いた僕の手を肩からはずし、ゆきはまたキッチンへ入っていった。
 無言の食事の時間だった。
 本当はゆきの中で何が起こったのか知りたかったが、それにはまだ触れてはいけないような気がして僕には訊く事ができなかった。
 気休めにつけたTVのバラエティー番組の笑い声がひどく場違いに天井際に漂っていた。
 それ以来、ゆきは変わった。 具体的にどこが?と訊かれると答えようがないのだけれど、何となく。今までと何の変わりもなく僕と接しているが、僕に開いてくれた心の扉に薄いベールがかかっているというか、開いた扉が閉じかけている。そんな感じだった。
 何度一緒にいてもその不安は拭いきれなかった。ゆきの寝顔を見るたびに不安な気持ちを打ち消すため、ゆきを起こさないようにその細い肩を抱きしめる僕だった。


 今晩は今年一番の冷え込みになるだろうとアナウンサーが言ったその夜、僕の不安は的中してしまった。
 前日からゆきの雰囲気がいつもと違っていた事には気付いていた。 気付いていたけれど、気付かぬふりをしてゆきを外に連れ出した。
 気分転換というより、核心から僕自身の気をそらしたかった。
 いつもなら出掛けた時はどこかしらでコーヒー1杯分の休憩をとるのに、その日は休みなく歩き続けた。ゆきと正面を向き合う事を避けたかった。
 「これ、どう?」と尋ねる僕に、無理に笑うゆきの笑顔が痛かった。
 寒くなってきたから帰ろうと言う僕に、そうだねとゆきは静かに答えた。
 「今晩は寒いから、ビーフシチューにでもしようか?僕が作るよ」
 僕は姑息な男だなと思った。そんな事でゆきの言葉を引き延ばそうとするなんて。
 「ピザでも取ろう・・・・」
 ゆきの返事は僕の心を見透かしているようだった。
 部屋に戻り、僕は買ってきたオールディーズのバラード集のCDをかけた。
 ゆきはヒーターをつけ、キッチンでお湯を沸かしていた。
 11Fにあるゆきの部屋のリビングは冬の夕焼け色に染まっていた。
 夕焼け色の部屋。静かに流れるバラード。 シューシューと何かを急かすような湯気の音。無言の二人。別れ話には最高のシチュエーションだ。ゆきが入れてくれた紅茶の甘い香りが切なさに拍車をかける。
 カンの悪い僕の思い過ごしでありますように。そう思いながら、灯りもつけず次第に弱くななっていく夕日を見ていた。
 「・・・・直人・・・・」
 やっとゆきが口を開いた。
 「何?」
 「・・・・私・・・もう・・・・一緒にいれない」
 CDは4曲目のイントロが始まっていた。4曲目のタイトルは「I need you」。
皮肉にもほどがある。
 「どうして?もう、いやになった?」
 「ううん、そんな事ない。今でも・・・・直人の事好きよ。でも・・・・」
 「でも、何なの?ゆきがそう言う気持ちなら僕がどんなに想っても一緒にいる事はできない。残念でショックだけど、よくある事だって、ヤケ酒でも飲めばいい。 だけど、理由は聞かせてくれよ。好きだけど、一緒にいれないってどういう意味?他に男ができたって事?!」
 僕は努めて冷静を装おうとしたが、できなかった。感情のままに語気も強くなっていった。
 「そんな・・・・他の人だなんて・・・・それは絶対にない」
 ゆきの声は今にも泣きそうな声だった。
 「じゃあ、どうして?!」
 きつく下唇を噛んでいたゆきだったが、声を殺して泣き出してしまった。
 僕はゆきの傍へ行き、静かにその肩を抱いた。
 「ゆき・・・・。もうだめなら仕方ない。 どんなに理不尽な事でもかまわないから、ちゃんと理由を言ってくれ。僕たちには始まりがあったんだから、最後もきちんとけじめをつけよう」
 「・・・・直人・・・・」
 ゆきは僕を見ないように泣いていた。
 「正直に言っていいよ。もう、僕がキライなの?」
 ゆきは首を横に振った。
 「僕は自分が知らない間にゆきを傷つけていたんだね」
 違うと、ゆきは声にならない声で言った。

 
 


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