砂の城 3/6
 翌日、いつものように8時過ぎに最後の客を送り出し、いつもよりテキパキと一日の締めの仕事をこなした僕は、9時半頃に自宅のドアを開けた。
 シャワーを終え、冷えた缶ビールを右手に僕はたいしておもしろくもないTVを観ていた。時計を気にする自分を誤魔化すにはそれしか方法が思いつかなかった。
 10時からの番組の二度目のCMの途中で電話が鳴った。
 「はい、早川です」
 「あの、夜分に申し訳ありません。村上と申しますが」
 「僕です」
 「村上です。今、電話は大丈夫ですか?」
 「大丈夫ですよ、気にしなくても。僕しかいませんから」
 「あの、明日は・・・どうしたらいいですか?」
 「そうですね・・・6時半から会場には入れますが、佐伯の出番は8時頃らしいんですよ。最初から聴きますか?それとも、佐伯だけ?」
 「できれば、最初から・・・」
 「いいですよ。えっと、待ち合わせは・・・××駅の改札にしましょうか。改札は一つしかないし、会場も駅から10分程ですからね。7時の開演には十分間に合う。」
 「6時半に××の改札ですね。わかりました」
 本当は車で迎えに行きますよ、と言いたかったけれど、電話で沈黙されたらと思うと僕は言い出せなかった。
 「もし、都合が悪くなったらいつでも携帯に連絡をください」
 「今の所、行くつもりでいますから大丈夫だと思います」
 用件はスムーズに終えられたが、その次の話をどちらも切り出さず結局、電話での沈黙は訪れてしまった。
 「・・・・では、6時半に××の改札、という事で」
 「楽しみに待ってます」
 「はい。じゃ、おやすみなさい」
 本当に用件のみの電話になったが僕はそれで十分だった。明日、彼女と個人的に会える、それだけで・・・

 6時20分。少し早かったかなと思いつつ、僕はすでにその10分も前から改札の前に立っていた。
 もし、彼女からのキャンセルの電話が入ったらとうわの空で一日を過ごし、 部屋を出る時間になっても特に連絡はなく一安心した。コンサートが始まるまで気を抜けないとわかっていても、僕の足取りは軽かった。
 6時32分。6時30分に到着する電車に乗ってきた彼女が改札を出た。
 「すみません。お待たせしてしまって」
 「いいえ。僕も今来たところですから。行きましょうか」
 「はい」
 僕たちは並んで歩き始めた。歩くたびに舞う彼女の香水の匂いが僕の久しぶりのときめきを刺激した。
 「音楽がお好きなんですか?」
 「中学に入るまでピアノを習っていたけど、ちゃんと練習しなかったから全然上達しなくて」
 「村上さんにピアノって、何か似合いますよね」
 「そうなんですか?」
 「うん、何となくだけど。ピアノを弾く後ろ姿が想像できるなと思って」
 「今はもう、何にも弾けませんよ」
 他愛のない話をしているうちに会場へ着き、彼女が1ページ、1ページ丁寧にパンフレットを読んでいると開演の合図が鳴った。
 彼女は僕の存在などないかのようにステージを見つめていた。 僕も彼女の邪魔をしてはいけないと思い、何も話しかける事はなかった。
 次の演奏は佐伯だとアナウンスが流れた時、彼女がやっと僕の方を見てくれた。
 「佐伯さん、アリアを弾くんですね」
 「ええ。アレンジは佐伯のオリジナルですよ」
 「そうなんですか」
 「村上さんはアリアがお好きだから、お誘いした甲斐がありましたよ」
 僕の言葉に彼女は笑っていた。 彼女の笑顔は僕のときめきに加速度をつけてくれた。そして、僕の右腕の時計の短針が数字の「9」を指す頃、コンサートは幕を閉じた。
 来た時と同じように並んで歩く僕たち。
 加速度のついた僕のときめきは、僕に彼女を食事に誘わせた。
 彼女にとっては予想外の事だったらしく、え?という驚きの表情と同時に足も止まってしまった。
 「すいません。また図々しい事を言っちゃいましたね。もしこれから予定がないなら、どうかなと思ったものですから。気にしないでください」
 「・・・・いえ、特に予定はないですけど・・・・」
 「いいんです。気にしないでください」
 「・・・・あまり、遅い時間にならないようでしたら・・・・」
 「本当ですか?じゃ・・・村上さんのおうちはうちの店の近くですか?」
 「お店から10分くらいの所です」
 「じゃ、その辺りの店にしましょう。村上さんも家から近い方がいいでしょうから」
 タクシーを呼び止め、僕はとりあえず方向だけを運転手に伝えた。
 「村上さんのお気に入りのお店とかありますか?よく行く店とか」
 「ないです」
 「それなら、僕が知ってる店でいいですか?」
 「そうしてください」
 タクシーは僕の指示通り的確に進んでくれた。 到着した店もさほど混んでおらず、僕たちはすぐに窓際の席に座る事ができた。
 ウェイターがオーダーの確認を取り、テーブルから離れる後ろ姿を見て僕は彼女に言った。
 「何だか、無理にお誘いしてしまいましたね」
 「いえ、大丈夫です。ただ、早川さんとはほとんど話した事がないから」
 「そうですよね。お客様とスタッフですから」
 彼女は笑っていた。
 「村上さん、下の名前を教えてもらってもいいですか?」
 「ゆきです。ひらがなでゆき」
 「色が白いから、ぴったりですね。その名前」
 「雪の日に生まれたから、ゆき。単純でしょ?」
 「そんな事ないですよ。・・・村上さん・・・」
 「何ですか?」
 「村上さんに特別の人がいないなら、また僕と会ってほしいんですが・・・」
 僕は別れ際に言うべき事を口にしてしまった。彼女の返事次第では、最悪の時間を過ごす事になるのに。僕は浅はかだった。
 「でも・・・私・・・早川さんの事、何も知らないから」
 「これから知っていってください。僕も村上さんの事が知りたいし。その上でこいつとは付き合いきれないなっていう事でしたら、諦めますから」
 「・・・お友達からって事でいいですか?」
 「それで十分ですよ」
 僕はすごく嬉しかった。
 運ばれてきたワインが僕たちの最初の楽しい時間の口火を切ってくれた。
 僕が彼女に質問し、彼女が答えるという形だったが、アルコールと時間が彼女と僕の距離を縮めてくれた。
 約2時間後、”送る”という僕の申し出を彼女は丁寧に断り、僕たちは店の前で次の約束を交わし別れた。

 


 
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