ひまわり日和 3/4

 「例えば、君はピカソが好きだとする」
 「え?」
 「君には6歳になる息子がいて、その子の7歳の誕生日に君は自分の好きなピカソの絵をプレゼントしたら、君の息子は喜ぶだろうか?」
 「多分、喜ばないでしょう」
 「どうして?」
 「子供にピカソは、ちょっと難しいと思います」
 「君とその小さな息子が同じ感性を持っているならその子は喜ぶだろうけれど、確かに6歳の子にピカソは難しいね。そして何より、プレゼントは君の意志だけで その子の事を考えずに贈ったから喜ばないのかもしれない」
 先生は、何を言わんとしているのだろう。
 「私は子供の頃から空想したり、絵を描くのが好きだったけれど、大人になって就いた仕事はそれと全く無縁なものだった。それでもよく息子と絵を描いたり、お話ごっこをしていたよ。 息子は、次は、次は、と私との時間を楽しんでくれた。君が認めてくれたトンボと冒険する話、あれには少しだけ事実が入っているんだよ」
 もう1杯どうぞ、と奥さんが熱いお茶をカップに注いだ。そして、先生の顔を見て微笑んだ。先生も奥さんに黙ってうなづいていた。
 「私たちの息子はね、夏のある日、麦わら帽子をかぶって、友達の所に行くと元気に出ていった。と言っても私は仕事で家にはいなかったから、妻から聞いた話だけれどね。行ってきます、と出ていった息子が ただいま、と帰ってくる事はなかったんだよ。彼が小学校に入って初めての夏休みの出来事だった。私と妻は全てを、生きていく意味すらなくしてしまっていたんだ。勝手だけれど、息子が仲良くしていた子供たちを見かけると つらすぎてね。生きていればいろいろな経験をし、もしかしたらもう父親になっていたかもしれない。・・・・でも、私の中の息子は、私の絵や話を楽しんでくれた、おばけが怖いと言っていた小さな少年なんだよ。今までも、きっとこれからもずっとね。 私の中で息子はずっと7歳のままなんだ。今でこそ、絵本作家なんて大層な名前をもらったけれど、私は小さな息子のために描いているんだよ。ただそれだけなんだ。だから、教えてほしいと言われても、何を教えていいかわからないよ」
 先生は子供に話すようにゆっくり、そして一文ずつ区切りながら話してくれた。僕がうなづいて理解したと示さなければ話を続けず、単語を聞き返せば先生がそれを辞書をひいて僕に示してくれた。
 今日までの、いや、ほんの少し前までの情熱が少しずつ冷やされて来たような気がした。諦めたくはないけれど、どうしていいのかわからなくて・・・・
 僕はもう湯気の立たないカップの中の紅茶を黙って見つめていた。
     弟子入りを断られたからなんて、簡単に帰ってくるんじゃないぞ
 父親の言葉が、頭の後ろの方で響いた。
 いい加減な気持ちは一つもない。先生のような絵を描けるようになりたいと、心底思う。でも、それはどうやったらわかってもらえるのだろう・・・・
 「こっちには、どれくらいいる予定なんだい?」
 先生はカラッとした口調で訊いてきた。
 「え?いつまでというのは決めていません。絵を描いて生活できるわけじゃないから、なるべく早く仕事を見つけようと思っています」
 「しばらくは日本に帰らない、という事だね」
 「ええ。いつか日本に帰るとか帰らないとか、今は何も考えてはいません」
 「やっぱり、君は若いんだね。その若さが羨ましいよ」
 先生が笑った。先生が笑ったのは、きっとこれが初めてだと思う。
 「君は私に絵を教えてほしいと遠い日本から来てくれた。ここへ来るまでに努力をしてきた。でも、私には君に教えられる事は何もないよ。君に対する返事はNOとしか言えない。それはずっと変わらないだろう」
 僕は、それでもお願いします、と言えない自分が情けなかった。伝えられると思っていた自分の気持ちが伝えられない事にもイラ立っていた。
 「私は、君の先生にはなれない。でも、友達にはなれると思う。それでは、ダメだろうか?」
 唐突な問いに僕は、先生の顔を見返す事しかできなかった。
 「それでは納得がいかないというのなら・・・・私はもう死んだ事にしてくれ。死なんて言葉は使いたくないけれど、会いたくても会えなかったというのなら、君も諦めがつくだろう」
 僕は焦って首を横に振り、早口の日本語で、宜しくお願いします、と言った。先生には僕の言葉が伝わらなかったらしく、軽く首を傾けて僕を見ていた。
 動転して言葉が浮かばない僕は、Thank youとOKを繰り返していた。
 「仲良くしてくれよ、ツカサ」
 先生は「君」ではなく、僕の「司」という名前を呼び、右手を差し出してくれた。僕はその手を、両手で握りしめた。
 
 「どうしたんですか?ぼんやりして」
 「あ・・・・ごめん。ふと、この街に来た時の事を思い出してね」
 「西崎さんは、あとどれくらいここにいるんですか?」
 「さあ。決めてないから。そのうち帰るかもしれないし、ずっといるかもしれないし」
 そろそろ少し先の事も考えないといけないのかな、と近頃思うようになっていた僕だった。4年もいれば、顔見知りも友人もできる。それぞれが結婚や仕事など自分のこれからの人生を見据えた道を 歩き始めるのを見るたびに、僕の道は中途半端な物に思えてしまっていた。ただ、思うだけで考えようとしない僕は現実から逃げているのだろう。
 「小川さんは、今日はこれからまだどこかに行くんですか?」
 「どうしようかな、4時か・・・・寒いし、もうホテルに帰ろうかな」
 「じゃ、一緒に帰りましょうか」
 「え?」
 「泊まってるのは、駅前の小さなホテルでしょ?」
 「どうしてわかるんですか?」
 「だって、この街に旅行者が泊まるホテルなんて、あそこしかないもの」
 「あははは。西崎さんって、やっぱりこの街の人なんですね」
 「ついでに言うと、僕はそのホテルに住んでるんだよ。安い家賃の代わりに雑用やかいだしなんかの手伝いをしてるんだ」
 「じゃ、2日間だけど私と西村さんは一つ屋根の下、なわけですね」
 「そういう事だね」
 僕たちはカフェを出て、ゆっくりとホテルに向かって歩き出した。歩きながら他愛もない話をする僕たち。彼女は鈴のようにコロコロとよく笑う。
 「小川さんは、明るいね」
 「よく言われます。脳天気なのかな」
 「たくさん笑えるっていい事だよ」
 「そうですね。でも今日は西崎さんともお知り合いになれたし、ひまわり日和かな」
 「ひまわり日和?」
 「私が勝手に作った言葉ですけどね。私、ひまわりとかたんぽぽみたいに上を向いて、パッと花びらが開いてる花が好きなんですよ。見てるだけで元気になれるから。ひまわり日和は、 楽しくてよく笑える日って事です」
 彼女は両手で花の形を作り、僕に笑いかけた。
 「そっか。ひまわり日和か。いい言葉だね」
 「ふふふ、やっと笑ってくれましたね」
 「え?」
 「何となくの笑った顔は何度か見たけど、笑顔って感じじゃなかったから。お茶に誘って迷惑だったかなって、ちょっと反省してました」
 「迷惑なら理由をつけて断ってるよ。僕、そんなに笑ってなかったかな?」
 「私がそう思っただけですから」
 「いや、笑ってなかったのかもしれないね。今日だけじゃなくて、ここの所ずっとそうだったのかもしれない。でも、笑えたのは小川さんのおかげだ」
 元気だけが取り柄ですから、と彼女はガッツポーズを作ってみせた。
 
 「ただいま、ママ」
 僕はオーナーをパパ、奥さんをママと呼んでいた。
 「おかえり、ツカサ。あら、お客様と一緒だったの?日本から来たって言ってたから、あとで教えてあげようと思ってたのよ。2人とも食事は7時頃でいいかしら?」
 ママの言葉を彼女に訳してあげると、彼女はそれでいい、と答えた。
 「あ、あ、西崎さん」
 「何?」
 「もう夕食の準備をしちゃってるならいいんですけど、お客様用の夕食じゃなくて、ここの人たちが食べてるフツーの夕食が食べたいんですけど・・・・だめかな?」
 今度は彼女の言葉をママに伝えると、ママは、いいけど、本当にいいの?と聞き返してきた。
 「本当にいいの?だって」
 「いいの、いいの。もしよかったら、みんなで一緒に食事ができたら嬉しいな」
 またママに伝えるとママは、できたら呼びに行くから部屋にいていいわよ、と本当の母親のように笑って言った。
 「図々しい事を言っちゃったかな?」
 「いいんじゃない。ママも笑ってたし」
 「ママって呼んでるんですか?もう家族なんですね」
 「そうだね、家族みたいなものだね」
 「うん、何か素敵。図々しいついでに、西崎さんの絵が見たいなぁ」
 「いいよ。僕の絵でよかったらどうぞ」
 ママに僕の部屋にいるからと伝え、彼女を部屋に案内した。
 「わぁ、画家の部屋って感じ!」
 「そう?絵の具やイーゼルがあるからそう見えるだけだよ。画家なんて、大層なものじゃないよ」
 見てもいいですか?と彼女は、重ねておいたスケッチブックを手に取った。
 「どうぞ」
 彼女は1枚、1枚ゆっくりと僕の絵を鑑賞してくれていた。
 「コーヒーを入れてくるから、見てていいよ」
 僕は彼女を残して、部屋を出た。
 
 
 
 
 
                                  
 
 
 

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