ひまわり日和 2/4

 いつものように夕食後、新聞を読んでいる父親の前に僕は座った。
 「父さん」
 「何だ?」
 「母さんにも聞いて欲しいんだけど。来週、バイト代が入ったら初めに決めていた貯金の目標額になるんだ。だから・・・・僕は行くよ」
 反対されるだろうと、正直不安だった。でも、僕は貯金の目標額達成というアテ外れな自信に勇気づけられていた。
 「行って来い。今までそのために頑張ってきたんだから。弟子入りを断られたからって、簡単に帰って来るんじゃないぞ」
 「うん」
 父親は新聞を畳みながら僕に言った。
 「お前が羨ましいよ」
 カエルの子はカエルね、と母親は仕方なさ気に笑っていた。そして、棚から封筒を出し僕によこした。
 「これ、あんたが今まで食費って家に入れてたお金。無駄遣いするんじゃないわよ」
 「母さん・・・・ありがとう」
 それから半月後、僕はヒコーキに乗った。
 必要最小限の荷物とうまく伝えられないといけないからと何日もかかって書き上げた僕の気持ちを綴った手紙。これが僕の全てだった。
 空港、滑走路を走る感覚、離陸、窓から見える風景、着陸。僕の興奮は時が経つにつれ、増していくようだった。
 ヒコーキから電車に乗り換えてこの街に着いた時、その作家の所に行くのはこれからだというのに、僕はゴールテープを切った気分でいた。
 時間も時間だし、今日はホテルで休もうとカタコトの言葉で駅員にホテルの場所を聞くと、この近くに旅行者が泊まるようなホテルはあそこだけだ、と駅前の小さなホテルを指さされた。 ホテルと言うより、ペンションといった方がいいくらいの小さなホテルだった。
 フロントでチェックインし、ベッドに横になってあれこれと興奮しながら考えていたのに、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。ドアをノックする音に起こされた時は、すでに朝だった。
 ドアを開けると、フロントにいたホテルのオーナーがいた。朝食の準備が出来たという。そう言えばチェックインの時に、朝食の事を聞かれたっけ、と笑ってうなづいた。
 小さなホテルの小さな食堂にいるのは、オーナー夫婦と僕だけだった。
 見るからに異邦人な僕に興味を持ったのか、コーヒーのおかわりを注ぎに来てくれた奥さんが、おいしい?と訊いてきた。僕が笑ってうなづくと今度は、どこから来たの?旅行なの?と訊かれ、僕はカタコトの 言葉で答えていた。そのうち、オーナーもやってきて僕たちは3人で会話をしていた。
 今のようには話せなかったから、きっと文法も単語もメチャメチャだったのに2人はうんうん、と一生懸命に僕の話を聞いてくれていた。
 一人で勉強してきた言葉が、カタコトでも通じている事が嬉しくて、僕はもうこの街の住人になった気分だった。
 「その人の家がどこにあるのか知ってるのかい?」
 「××に住んでるけど、詳しい住所まではわからないんだ。だから、探すよ」
 出版社に問い合わせたり、ネットで調べても、日本で言う何丁目何番地という所まではわからなかった。
 今より4年分若かった僕は、全てが無謀だったと思う。でも、もしも、なんて事は一度も考えた事がなかった。きっと、今の僕にはできない事なのかもしれない。
 奥さんが地図と路線図を持ってきて、××に行くには、バスの方がいいわねと教えてくれた。
 
 バスの中で僕は、メモ帳に書いた台詞を何度も繰り返しつぶやいていた。
 「日本から来た西崎です。僕に絵を教えてください」
 そして、バスを降りてから適当に歩き出し、会う人会う人にその作家の家を訊いたが1時間近く歩き回ってもわからないという返事ばかりで、正直途方に暮れ始めていた。バス停から適当に歩き始めたから、逆方向に来たのかもしれないと また来た方向に向かって歩き出すと、犬を連れた女の人に出会い、その人にも声を掛けた。
 「・・・・先生の事かしら?」
 「絵本を描いている人ですか?」
 僕の言葉がうまく伝わらなかったらしく、その人が首を傾げたので僕は絵本という言葉を繰り返し、バッグからトンボを男の子の絵本を取り出した。
 するとその人は、うなづいて、ついてらっしゃいと僕に言ってくれた。
 「どこから来たの?」
 「日本です」
 「日本・・・・カシワバラと一緒ね」
 その人は、日本からこの国へ移籍したサッカー選手の名前を言った。同じ、同じと僕が笑って答えると、その人は僕の顔を見て言った。その言葉を正確には理解できなかったけれど、遠い国に一人で来るなんて、僕もカシワバラも勇気があるというような事を言っていた。
 「僕もカシワバラも夢があるから」
 僕の言葉にその人は優しく笑ってくれた。
 15分程歩くと、その人は右に伸びる道を指し、3軒目の家よと教えてくれ、僕は何度もお礼を言ってその人と別れた。
 もうすぐ、もうすぐなんだと思うと、僕は走り出していた。
 ・・・・着いた・・・・ここだ。
 もし、留守だったら。興奮の絶頂にいた僕は、そんな事など考えもつかなかった。
 深呼吸をして僕はチョコレート色のドアをノックした。
 ドアが開く事ばかり考えていた僕は、横から声を掛けられて驚いてしまった。興奮しすぎて、庭で花の世話をしていた女の人に全く気付いていなかった。
 「日本から来た西崎です。先生に会いに来ました」
 その女の人は多分奥さんなのだろう、ニシザキ?と僕の名前を確認すると、ちょっと待ってねと中に入っていった。
 そして、ドアが開いた。開いたドアの向こうに立っていたのは、絵本の作家紹介に載っていたメガネをかけた初老の男性だった。
 「私に何かご用ですか?」
 僕の興奮は一瞬にして、緊張に変わった。
 「日本から来た西崎です。僕に絵を教えてください」
 僕は急いでバッグから手紙を出して先生に渡した。手紙を受け取った先生は、中へどうぞと僕を招き入れてくれた。
 門前払いを食う事はなかったけれど、その表情は決して僕の期待に応えるものではなかった。この時初めて僕は不安を感じた。
 僕と先生は向かい合わせに座り、先生は黙って僕の手紙を読んでいた。重苦しい空気の中、奥さんがお茶を運んできてくれた。
 先生が肩で息をつき、僕を見て何かを言った。けれど、僕は緊張していて何を言われたのか理解できず、え?と先生を見返すと先生はもう一度話してくれた。
 「これから私と君が話す事は、君にとってとても大事な事だと思う。だから、わからない言葉があったらちゃんと質問しなさい」
 「はい」
 「君は私の絵を認めてくれた。そして、遠い日本からたった一人で私の所に来てくれた。私はそれをとても光栄に思うよ」
 「僕は先生に絵を教えてもらいたいんです」
 「私の本に出会ってから今日までの君の努力と情熱を私は尊敬できる・・・・でも、私は君に教える事など何もないよ」
 「え?!」
 「絵の勉強をしたいのなら、画家の所に行った方がいい」
 僕は先生の言葉に息を飲んだ。
 「私は人に教えられる技術など持っていないよ。それに、君は大学で絵の勉強をしてきたのだろう?」
 「技術的な事ではなくて・・・・先生のような絵が描けるようになりたいんです」
 「絵に対する考え方はいろいろあるけど、自分の思いを込めて描く。絵はそれでいいんじゃないかと私は思うよ。君は君の絵を描けばいい。それだけだよ」
 僕は何も答えられなかった。同じ絵を描きたいのなら模写すればいい。でも、僕は同じ絵を描きたいのではなく、先生のような絵を描きたいのだ。それをどう説明していいのかわからなかった。
 「君の言う、私のような絵とは、どういう意味なんだい?」
 この質問にも僕は返事に詰まってしまった。具体的にこういう絵と言える言葉がみつからない。それでも僕は辞書を片手に何とか答えようと努力をしていた。
 「僕が感じた事をうまく説明できないけれど・・・・絵を描く事に楽しさを感じられなくなって・・・・何を描きたいのか、どんな風に描きたいのかもわからなくなって・・・・でも、先生の絵に会って こういう絵を描きたいって思ったんです。その気持ちが、今日まで僕を頑張らせてくれました・・・・」
 先生は冷めかかった紅茶を飲み、ゆっくりとカップを置いて、庭の緑を眺めていた。
 僕の中の興奮と緊張は、少しだけ不安と落胆に変わりつつあった。まだ諦めるつもりはないけれど、僕の言っている事はきっと先生にとってはあまりにも抽象的なのだろう。
 先生の絵はむずかしい技術が必要なわけではない。模写しようと思えば、美大生ならすぐに出来る程度の技術だ。柔らかい色使いも特に目立つものではない。
 それなら、僕は何を教えてもらいたいのだろう・・・・?
 色使いやタッチを教えて欲しい、と具体的に言えるならいいけれど、先生のような絵が描きたいとしか言えない。
 それに対して先生は、自分の思いを込めて描けばいい、と明確にNOの返事をくれた。
 どうしたら僕は、うまく説明できるのだろう・・・・?
 
 
 
 
 
                                  
 
 
 
 
 
 

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