「お父さん、仕事いいの?」
「一段落ついてるから、今日は平気だ」
はい、どうぞとお母さんがコーヒーをいれてくれた。
「ねぇ、本当は怒ってる?」
「何を?」
「今回の事。慎もすぐ向こうに行っちゃうし」
「しょうがないだろ。自分のやってる事に責任を持てない男の方がお父さんはいやだな。中途半端に投げ出して、お前と一緒になっても後悔するだけだろ。そういう思いがあったら、うまくやっていけないぞ。
子供もいる事だし、なるべく早く帰ってきてもらうのがいいけどな」
「本当は怒られるかと思ってた」
「今まで言う必要も機会もなかったから話さなかったけど、お前が生まれた頃、お父さんはまだサラリーマンでな。家族を養っていかなきゃいけないってわかってたけど、どうしても独立して自分の設計事務所を持って仕事がしたいって夢が捨てきれなくて。
お母さんに、会社辞めてもいいかって頭下げたんだよ」
「お母さん、何て言ったの?」
「真由が1歳になるまで待って。そしたら私も真由を保育園に預けて働くから。2人で働けば何とかなるでしょ・・・いやね、何昔話してるの。でも、そこからがもっと大変だったのよ」
お母さんが私の横に座った。
「どうして?」
「お父さんが会社を辞めて、真由を保育園に預けて働き出して間もなく貴之がお腹にいるのがわかって。働けるうちは働くけど、お母さんが仕事を辞めたら食べていけるのかしら、本当に子供は産めるのかしらってお腹が大きくなるにつれてどんどん不安になっていったもの。
結局、仕事に戻ったのは真由が高校生になってからだったけどね」
「若かったんだよな。貯金だってたいしてなかったのに」
「お母さん、よく許したね」
「生活の心配はあったけど、いざとなれば実家で間借りさせてもらえばいいかって。お母さんも若かったのよ。でもね、お父さん一生懸命だったよ。仕事が入らないと日雇いのバイト行ったり、夜も道路工事のバイトしたり」
「初めからそんなに仕事にありつけるとは思ってなかったから、それくらいは覚悟してたよ」
「お母さん、真由にはそういう苦労はさせたくないと思ってるけど、それは大丈夫そうね。向こうの親御さんとは、仲良くやっていけそうなんでしょ?」
「大丈夫だと思う。お母さんが今日は土下座も覚悟で行かなきゃって言ってた」
「それはこっちも同じよ。自慢の息子さんだろうし。お父さんが何も怒らないのはね、慎くんが昔の自分と少し似てるって思ってるからよ、ね?」
「さぁな」
「単身赴任だと思えばいいじゃない。ずっと帰って来ないわけじゃないんだから」
「そうだね。今度の5月に帰って来るのか、9月にまた行くのか聞いてないけどずっと行きっぱなしじゃないしね」
「去年は貴之が結婚。今度は真由。お腹には子供。また家族が増えるな」
オレにもコーヒー、と良文が起きてきた。
「あんた、学校は?」
「行くわけねーじゃん。今日来るんだろ?ナマで松木慎を見なきゃ。オレ、ワールドカップは全部見てたもん。うひょー、ナマ松木だ」
「ばーか」
そして3時を回った頃、慎たちが来た。
「どうしたの?スーツなんか着て?」
「おふくろがちゃんとした格好しろって言うからさ・・・」
「別にいいのに。ふふ、おかしい。緊張してるんだ?」
「当たり前だろ。親父じゃないけど、寿命が縮む」
4人の親は緊張した顔で話し始めた。お茶を入れている私の横に良文が来て、いい男じゃん、ナマ松木と小声でヘラヘラしていた。
私がお茶を運び座ると、ソファに座っていた慎のお母さんが突然床に正座をし両手をついた。
「大事なお嬢さんがお嫁に来て頂くのに、当の本人が家を空けてしまう事になって本当に申し訳ございません。真由ちゃんの事は大事に致しますので、どうか宜しくお願い致します」
突然の事にみんな呆気にとられてしまった。
「お母さん、顔を上げてくださいよ」
「そうですよ。今朝も単身赴任だと思えばいいか、なんて話していた所だし。それより、こちらこそワガママで何もできない娘ですが何卒宜しくお願い致します」
結婚ってこういう事なのか、と私は何となくわかってきたような気がした。
まじめな話が終わり。親たちは世間話をしていた。私と慎は、2階の私の部屋にいた。
「もう何もないでしょ。ベッドと本棚くらいで。上の弟が結婚してるから戻ってきたら、この部屋も片づけちゃうし」
「アルバム見せてよ」
「やだよ」
「オレのは見たんだから、オレには見る権利があるね」
仕方なく、卒業アルバムを慎に見せた。
「真由、若い」
「高校生なんて何年前だと思ってるの?若いに決まってるでしょ」
「かわいいな」
「うるさいよ」
「真由はお母さん似だね。良文くんとも目元が似てる」
「ヨシと?そうかなぁ。慎はお兄さんと似てる?」
「どうかなぁ。オレほどじゃないけど、背は高いかな。180はあるから」
「それにしても、お母さん、びっくりした」
「オレも。まさか本当にやるとは思わなかったよ」
「それだけ慎が大事にされてるって事よ」
それから、良文も連れて7人で食事に出た。みんなが笑って話すのを見て、私はとてもあったかい気持ちになった。慎と良文は、もう友達のように話していた。
「今日は本当にごちそうさまでした」
「今度、ゆっくり来てちょうだい」
「年末、日本に帰って来ますからその時にまたご挨拶に来ます」
「楽しみにしてるよ」
「これから・・・宜しくお願いします」
「こちらこそよろしくね、慎くん」
「私、明日会社だから一緒に帰るね」
「うん。体、大事にしなさいよ。流産しやすい時期なんだから」
「わかった。じゃ、またね」
慎の車が見えなくなるまで、お父さんとお母さん、良文は見送ってくれていた。
私を送って家に帰る予定だったのにお母さんが気を遣って、たまにはお父さんと電車に乗りたいからと途中で車を降りてしまった。
「気を遣わせちゃったね」
「たまにはいいんじゃない、2人で電車デートも。気にしなくていいよ」
部屋に着き、私はコーヒーを入れた。
「真由、コーヒーっていいの?」
「少しくらいいいんじゃないの?ダメ?コーヒーが飲めないなんて、ストレス溜まっちゃう」
「ほどほどにね。あーもう、スーツなんてヤダ」
慎はネクタイを弛めた。
「慎のスーツ姿って、間近で見るの初めてかも」
「・・・そっか。特別な事がなきゃスーツは着ないからな」
「なかなか似合ってるよ」
「そりゃ、どうも」
「あーあ、この部屋とももうすぐバイバイか。かなり気に入ってたんだよね、この部屋」
「ここで一人でいる方がいい?」
「いいよ、慎の家で。今までより早起きしないと会社に遅刻しちゃうけど」
「そういう面倒が増えるか・・・」
「冷蔵庫とか大きい物は誰かもらってくれないかなぁ、捨てるのももったいないし。美幸、ベッドいらないかな」
「あげられる物はあげちゃえよ。自分の物だけ持ってこればいいから。部屋にTVもビデオもあるわけだし」
「年末帰ってくるんでしょ。どこで寝るの?」
「は?」
「だって、私が慎のベッドで寝るんだよ」
「もう一緒には寝てもらえないんですか。冷たいんですね」
「ははは。ベッドだけ新しいの買おうか。ベッドじゃなくて、スプリングマットだけの方がいいか。物も増えるし。セミダブルのスプリングマットだけ買おう。慎、明日はベッドの解体だよ」
「はいはい、午前中に解体して午後買いに行ってくるよ」
「いつ引越にしようかなぁ。ちょっと淋しいな」
「オレもちょっと淋しいかな。あ、明日時間が決まったら電話して」
「多分、いつもと同じくらいじゃない?恥ずかしいね、みんなに言うの」
「本当だよな。どんな顔して言えばいいんだか」
「がんばってね」
「オレだけかよ。何とかなるだろ。さて、今日はそろそろ帰るよ」
「そうだね。緊張して疲れちゃったね」
靴を履き終えた慎が振り返って、お腹に手を当ててきた。
「ここに入ってるんだ」
「そう。大事にしまっておくの。宝物だから」
「宝物か・・・そうだな」
慎は私のお腹を見て笑っていた。
「では、明日の肉体労働、がんばるように」
「働かせて頂きます」
慎が帰ったあとお腹に手を当て、よかったね、がんばろうねと私は小さな宝物に話しかけた。
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