そう思った瞬間、胸の鼓動が早まり手が震えた。
今、子供ができても私は・・・ううん、仕事疲れで遅れているだけ、きっとそう。そうに違いない。ちゃんと、ちゃんと確かめなきゃ。
時計を見ると9時15分。私は試合そっちのけでバッグから財布をだし、11時まで開いている駅前のドラッグストアに向かった。
妊娠検査薬を買い、早く帰って確かめなければと走ろうとすると、自然に手がお腹に行く。
もし、もしお腹の中にいるのなら走っては・・・でも、早く帰って・・・
気ばかりが焦り、やっとの思いで部屋に辿りついた。
つけっ放しのTVでは、3セット目の終盤をやっていた。慎たちが2点リードされている。それを見ても私は何も思わなかった。もう自分の事で頭が一杯で慎を思いやれる余裕は全くなかった。
ミネラルウォーターをカブ飲みし、キッチンに手をついたまま突っ立っていた。3セット目は慎たちの負けらしい。キャスターの声が他人事のように響く。
見なきゃ。見てあげなきゃ。慎は必死でがんばっている。大丈夫よ。きっと私の思い過ごし。そんな事・・・あるわけないじゃない・・・
ソファに座りTVに集中してその事から気をそらし、逃げ出したかった。でも、思い過ごし、カン違いと言い聞かせても何の効果もなく不安はつのるばかりだった。
もし、もし・・・万が一そうだったら・・・どうすればいいの?
頭の中がグルグルと回り、まともに考える事などできなかった。
検査薬の判定結果を待つ間、今までにないくらいの気分の悪さだった。結果が見えないように裏返して、私はまたぼうっとキッチンで立っていた。
どうせ、結果は陰性。妊娠なんてしてるはずないじゃない。疲れてるだけよ。
1週間ほど前、会社帰りに、新商品ですと5本入りの女性向けのタバコのテスターをもらった事を思い出した。美幸にあげようと思っていたのを出してきて、火をつけた。
妊娠なんてしてないから、タバコを吸ったって平気よね。軽めのタバコを大きく吸い込み、上に向かって煙を吐く。
大丈夫、平気だって。陰性、陰性。そうに決まってる。
TVに目をやると、ちょうど慎の打ったアタックが決まった所だった。また人気者になっちゃうね、慎。
消そうと思ってたタバコをまた口に持っていき、私はイライラしながら吸いたくもないタバコを吸っていた。
そろそろ検査薬の結果が出ているだろう。大丈夫と声に出してみても、怖くてすぐに見る事ができない。
すばらしいプレーです、とキャスターは慎たちを賞賛する言葉を連ねる。ここまでの快挙は、日本にとってしばらくぶりの事らしい。ここまで来れた事は当然、慎一人の力ではないけれど、私は慎を誇りに思う。
私は深呼吸をして意を決し、検査薬に手を伸ばした。生きた心地がしない。大げさかもしれないけれど、そう感じてしまう。
大丈夫。絶対に大丈夫。結果は陰性。そうでなければ、困る。そうつぶやいて検査薬を表に返した。
結果は陽性。
目の前が真っ暗になるような気がして、目を閉じその場にへたり込んでしまった。
そんな・・・どうすればいいの・・・?どうして・・・どうしよう・・・
ふと部屋の方を向くとテーブルの上にあるケータイが目に入った。
美幸か中川さんに電話・・・とケータイに駆け寄ったが伸ばした手が止まってしまった。
何て言うの?慎は・・・?
もう下を向くしかなかった。
TVは試合終了を告げている。セットカウント1−3。あの1セットを取ったきりで慎たちは試合には負けてしまった。控え室に戻る慎たちにインタビュアーが声を掛ける。
みんな笑顔で答えている。慎も同じように。
2セット目を奪取した時のあの嬉しさはどこへ行ったんだろう。ほんの少し前の事なのに、記憶が感激が私の中に戻って来ない。浮かぶのは、陽性反応が出た検査薬の事だけ。
でも・・・もしかしたら反応が間違って出たかも・・・絶対じゃないって取説にも書いてあったじゃない。そうよ、100%決まりなわけじゃないのよ。明日、病院に行こう。お医者さんに診てもらえば、検査薬の誤反応だって
証明してくれる。そうよ、こんな事あるわけないんだから!
期待というより思いこみに近かった。少しだけ気を取り直し、カップに残る冷たくなったまずいコーヒーを一気に飲んだ。
うまく眠れないまま朝が来た。
慎からの電話に異常な程のカラ元気で応え、自分を押し隠した。慎の嬉しそうな声を聞くと私も自然に笑う事ができたけれど、同時にそれがとても痛かった。どうしよう・・・と言いそうになるのを私は必死でこらえた。
昨日の電話はあれでよかったんだ。どうしよう、は100%確定してからでいい。そんなはずないけどね。
電話帳を取りにキッチンの前を通ると、タバコの箱が床に落ちていた。落とした事には全く気付いていなかった。拾い上げると1本分の隙間ができた箱の中で残りのタバコが仲良く斜めに傾いていた。
箱からタバコを出し、火を着ける。そんな事があるわけがない、という事を今この場で何とか証明してみたかった。こんな事をしても何の意味もないとわかっていたけれど、妊娠していないのだから、タバコくらい平気と煙を吸い込んだ。でも、吸いたくもないのに吸っているのだから、気分が悪くなってくる。
それでも意地になって最後まで吸い、灰皿にタバコを押しつぶした。
確か駅の近くに産婦人科があったはず。電話帳でその産婦人科を探しあてた。
みんなとは6時半に待ち合わせて試合会場へ行くから午後の診察で。ううん、少しでも早くカン違いですって言ってもらおう。
時計を見ると8時半を過ぎた所だった。軽く朝食を済ませ、着替えて部屋を出た。
早く診てもらおうと思っているのになかなか足が進まず、私はコンビニに寄っていた。入り口際に置いてあるスポーツ新聞は全て機能の試合がトップ記事になっていた。
「日本代表 オリンピック決定」
嬉しいはずの記事なのに今の私には重くのしかかってくる。雑誌をパラパラと流し読みしていると、9時半を過ぎていた。いつまでもこんな事をしていてもどうしようもない。雑誌を棚に戻し、私はコンビニを出た。
受付を済ませ、診察前にする事を指示されて私は待合室のイスに座った。生まれて初めての産婦人科。淡いクリーム色の壁にはかわいらしい天使のイラストが描いてある。私の周りには、お腹の目立つ人が3,4人いる。その隣には旦那さんらしき男の人もいる。小さな子供が待合室の絵本を見て、ママ、ぞうさんと話しかけている。
ここにいるみんなは、赤ちゃんに逢える日を楽しみにしている人ばかり。
近くにあった雑誌を開き周りを見ないようにした。けれど、気が散って内容なんて読めたものではない。溜息をついて雑誌を置くと、また新しい妊婦さん旦那さんとが入ってきた。そして二人は受付を済ませると私の隣りに座った。
「お腹が大きいのも大変だし早く顔が見たいけど、ちょっと産むのがもったいないのよね。ずっとお腹にしまっておきたい気分」
「それじゃ、オレはずっと顔が見れないよ」
「あ、動いた。ほら、ここ」
「おぅ、本当だ。元気がいいから男の子か」
「それは出てきてからのお楽しみ」
聞こえてくる幸せな会話に、ここから逃げ出したくて仕方なかった。私以外はみんな、幸せを増やすためにここに来てるのに、私は・・・私だけは・・・世界で一番不幸になった気分だった。
放り出した雑誌にまた手を伸ばし、何も考えなくて済むよう必死になって読み始めた。
「田辺さん、どうぞお入りください」
とうとう私の順番が来た。恐る恐る診察室に入り、看護婦さんの指示通りに動く。先生はメガネをかけた女医さんだった。
「今日は妊娠を調べるって事でいいのかな?」
「・・・はい」
「そんなに怖い所じゃないから、大丈夫よ」
先生は私の緊張を解いてくれようとするけれど、私は笑って返事をする事などできなかった。
診察は1分も経たないうちに終わってしまった。そんなにあっけなく終わって、本当にわかるの?これが率直な感想だった。
こちらに座ってください、と看護婦さんに言われ先生の前に座った。先生はどうしたの?というような顔で私を見ていた。
「緊張した?」
「はい」
「ま、初めてだもんね。はい、これ見て」
先生は白黒の何だかよくわからない紙を私に見せた。
「あんまりキレイじゃないからわかりにくいんだけど、ここ、周りと色が違うでしょ?」
「はい」
「これが、あなたの赤ちゃん」
「・・・赤ちゃん?!」
「そう。予定日は・・・来年の7月17日ね。このエコー写真はあげるから。まだ不安定な時期だから、体に無理のない生活をしてください。今日はこれで終わりです」
先生は看護婦さんに、受付で私に何かを渡すようにと言っていた。
「・・・ありがとうございました」
「お大事に」
目の前が真っ暗とも真っ白とも、何とも言えない感じだった。陽性反応が出たのだから、と少しは覚悟していたけれど、目の前でこれがあなたの赤ちゃんと言われ目眩がしそうだった。
待合室の幸せな人たちと私。どうしてこんなにも違うんだろう・・・
田辺さん、と受付に呼ばれ会計を済ませると保険証や診察券のほかに小さな冊子を渡された。
お大事に、という言葉になんとか応え、私は産婦人科を出た。
来る時はあんなに足が重かったのに、帰りはやけにスタスタと歩いていた。またコンビニに寄り、雑誌、お菓子、パンなど目に付いた物を買い込んで部屋に戻った。歩いている時も買い物をしている時も、何も考えていなかった。
TVをつけ、コタツのスイッチを入れ、買ってきた物をテーブルに並べた。
何やってるんだろ、私。こんなに買ってきて。バカみたい・・・
バカみたいと思っているのに、私はお菓子の袋を開け食べ出した。雑誌を隅から隅まで念入りに読み終えた頃には、お菓子の袋を箱が2つずつ空いていた。それを見ても、よく食べたなとしか思わなかった。
昨日はよく眠れなかったから、少し寝ようとバッグからケータイを出し、4時にアラームをセットした。ケータイと一緒にバッグから出てきた帰り際にもらった冊子を目に付かないようにクッションの下に押し込み、そのまま横になって私は寝てしまった。
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