「もうすぐだねワールドカップ。毎日スポーツニュースをチェックしてるよ」
「昨日は慎くんのインタビューだったね。惚れ直してしまったわ」
「慎がチケット取れるって言ってるけど、行く?」
「当たり前じゃない。行くに決まってるよ」
「じゃ、美幸とテルくんと中川さん、木村くんの分を頼んでおくね。ゆかりちゃんも行くのかな?あとで訊いてみよ」
ゆかりちゃんは本人の希望もあり今回のプチ異動で秘書課に行ってしまい、課が変わってからはほとんど付き合いもなくなっていた。
「いつの試合?」
「早めに言えばいつでもいいみたいよ。会社が休みの日がいいよね。東京での土日の試合はっと・・・」
私は慎にもらった試合スケジュールを手帳から出し、2人に見せた。
「私、土曜がいいんだけど。最終日の日曜っていとこの結婚式なのよ」
「じゃ、土曜にしよ」
「テルくんと木村くんもそれで平気かな?」
「平気にさせる」
「当然」
「2人ともカカァ天下ね。コワイコワイ」
慎が練習に合流してから、私はがむしゃらに仕事をした。情けない自分がイヤで、少しでも情けなさから抜け出したかった。
慎は相変わらず毎日連絡を入れてくれていた。そろそろメールか電話が入るだろうという時間以外は慎の事を考えないようにしていた。
私は自分の足で立てるようになりたかった。自分の足で自分一人で立てたなら、少しは慎と対等になれるかもしれない。一方的な好きも変えられるかもしれない。
「真由、今日も残業するの?」
「するよ。年末に慎のとこに行こうかと思ってるから、残業代稼がないと」
「それはわかるけど、無理してない?課長が田辺はどうしたんだ?異常な程のやる気だなってぼそっと言ってたよ」
「あはは、うん、やる気あるよ。1日でも早く課長のイスに座るんだ」
「真由、何かあったの?」
「ないよ、何も。残業代をせっせと稼いで、キャリアアップしていく。これぞ一石二鳥、サラリーマンの鏡だわ」
「真由の言ってる事は間違いないけど。本当にどうしたの?慎くんと何かあったの?」
「なーいって。あ、チケットは近々取りに行って来るから。美幸の仕事で残ってるのがあったら言って、やっちゃうから。それ、入力終わってる?」
「・・・真由」
「どうしたの、2人とも?一緒に帰ろうかと思ってたんだけど、お邪魔だった?」
「私、残業していくから美幸とお先にどうぞ」
「今日も残ってやるの?昨日も10時頃までいたんだって?梶原さんが遅くまで手伝わせて悪かったなって言ってたよ」
「大変そうだったから手伝ってたの。今度おごってもらう約束しちゃった」
「しちゃった、じゃなくてさ。悩み事があるなら言ってくれ、真由」
「じゃ、自販機でカフェオレ買ってきて」
「はいはい、ちょっと待ってな」
冗談で言ったのに、美幸は買いに行ってくれた。
「急に仕事に燃えちゃってどうしたのよ?慎くんと何かあった?」
「中川さん、美幸と同じ事言ってる」
やっぱり、何でも慎だと思っちゃうんだね。
「残業代稼いで年末の渡航費用にしようと思いまして。それに仕事が楽しくてしょうがないの」
「ほれ、買ってきたよ」
「サンキュ、お金、お金っと」
「いいよ。チケットの事もあるし、それくらいおごるよ」
「チケットは慎だよ。私じゃないよ」
「じゃ、明日ジュース買って」
「わかった」
「私たち本当に帰るよ」
「うん。お疲れさま」
「あんまり遅くならないようにね」
「ありがと」
ごめんね、美幸、中川さん。もう少しだけ1人でがんばってみるよ。
帰っていく2人の後ろ姿を見て私はそう思った。
慎が練習に合流し、ワールドカップが始まるまでの2週間ちょっとの間、慎と顔を合わせたのはチケットを取りに行った時だけだった。
「真由、少し痩せた?」
「そう?仕事がんばっちゃってるからね。痩せたというより顔が疲れてるのかな」
「がんばるのはいいけどさ・・・」
「大丈夫だって。少しくらい無理したっていいんじゃない?今はそうしたい時期なのよ」
「無理は自分でコントロールできる程度で止めるんだよ」
「うん。でも、仕事が楽しいの。試合が始まったら残業はしないようにするから」
「それはいいんだけど・・・」
「平気、平気。死ぬほどの無理なんて、そんな根性ないから」
慎は何も言わず私の顔を見ていた。
「今は少しくらい無理してでもがんばりたいの。そんな顔しなくても大丈夫だって、ね」
「・・・わかった。遅い時間なら電話に出られるから、何かあったら電話しろ」
いつにない強い口調の慎だった。
「何を想像してるかわかんないけど、慎が心配するような事はなにもないから。慎は考えすぎ。そろそろ帰るね。チケットありがとう。楽しみにしてるから」
合宿先にチケットを取りに行った事もあり、私は早々に帰る事にした。慎と長く向き合っていると、心の中を見られてしまうような気がした。やましい事など何一つないし、私自身のためにがんばっている事だけれど
慎に心配されるのがイヤだった。大会前の大事な時期だし、ここで慎に頼ってしまったら何の意味もない。
駅に着き電車を待つ間、本当に大丈夫だよと顔文字入りのやけに明るいメールを慎に送った。
ケータイをバッグにしまおうとした時、左腕の時計が目に止まった。
慎の右腕にも時計があったっけ。
周りの人に気付かれないように私は一人で時計を見て笑った。
ワールドカップが始まり、私は毎日TVに釘付けだった。夕方にやるダイジェスト番組を予約録画し、夜の試合もふいの残業で見損なわないように録画の予約。TVの前で1人でハラハラしたり、喜んだりしていた。
慎は果敢に飛んでいる。素人の私が見ても日本を出る前より数段テクニックが上がっていると思う。アタックが決まり、チームメイトと喜び合う慎。私も本当に嬉しい。
このワールドカップでは上位3位以内に入らなければオリンピックのチケットは手に入れられない。
「3戦負けたら、オリンピックは無理だね」
慎はそう言っていた。当然、強豪と言われるチームも出場している。
「国としてワールドカップやオリンピックに出られたとしても、そこに自分がいるとは限らない。みんな、人生賭けて来てるんだよ」
今日は9戦目。放送時間がゴールデンタイムである事、オリンピックのチケットが見えてきている事で、男子バレーへの注目度は沸騰状態らしく、連日ニュースや新聞で大きく取り上げられている。
昨日までの成績は7勝1敗。同成績だったチームが今日の午後の試合でストレート負けをした事によって、慎たちはまた1つオリンピックへの階段を上った。
今日の試合で上位3チームはほぼ決定でしょうね、とTVのキャスターは言う。
今日の試合に負けても1セット取れれば、慎たちはオリンピックのチケットが手に入れられる。負けても1セット。言葉だけなら気楽に思えるけれど、現実はそう甘くはない。7勝1敗の成績も楽に出せたわけではないのだ。
ギリギリの所でやっと勝ち抜いてきたような試合が半分もある。
「今日で決まる。最終日まで結果が持ち越す事はない。1セット・・・1セットだけ取れればオリンピックだ。でも、その1セットすら許してくれそうにない相手なんだよ。今ね、強気と弱気がごちゃ混ぜになって気分が悪いよ」
今まで試合前に電話などしてこなかった慎が夕方電話をかけてきた。
「慎・・・ここまで来た自分とチームのみんなを信じよう、がんばって。こんな事しか言ってあげられなくてごめんね」
「いや、いいんだよ。真由の声聞いたら少し楽になった。ここまで緊張するのは久々だね。負けても悔いのない試合なんてない。負けたら悔しいに決まってるんだから。あと2時間もすれば試合が始まる。正直、プレッシャーが重いけど気合い入れ直して行くよ。仕事中、ごめんな」
「大丈夫よ。課長、タバコを吸いに行ってるから。グッドタイミング」
「あはは、そうか。ラッキーだったね」
「運が向いてるって事よ。慎、みんな人生賭けて来てるって言ってたでしょ?だったら、死ぬ気で行って来い、松木慎」
「おう、やるよ、オレは。・・・ありがとう、真由」
「私は・・・何もしてあげられない。がんばってって言葉も慎には気休めにしかならないかもしれないけど・・・」
「十分だよ。電話してよかったよ」
「私も気合い入れて仕事して、さっさと帰って試合見る。誰よりも応援して、慎の事を信じてるのは真由ちゃんだって忘れないように」
「了解しました。お守りもちゃんと首から下がってますから。真由がついててくれるんだよな」
「うん、背後霊ね」
「守護霊じゃないんだ?・・・オレ、がんばるから」
「何があっても笑顔は忘れないで。不安な顔は損なだけだよ」
「そうだね。課長が戻ってくるといけないから電話切るよ。夜にまた電話するから」
「緊張したら、手のひらに人って字を書いて飲むんだよ」
慎は笑っていた。本当は私もドキドキが止まらない。オリンピックがどうのという事ではなく、TVの向こうで必死に飛ぶ慎に。
勝つか負けるかの公平な答え。答えに行き着くまでのプロセスなんて関係ない。結果論の集大成。
誰かを応援する人がみんな思うように、勝ってほしい。勝たせてあげたい。今日の試合というハードルは高い。相手が強いというだけでなく、これからの慎をも変えてしまうかもしれない。
もし、今日だめだったら・・・
私は下唇を噛んでひょこっと頭を出した思いを打ち消す。見てるだけの私が不安になってどうする?いろんなものを背負ってコートに立つ慎の事を考えれば、ただ見ているだけなのに・・・
大丈夫。最後にあるのは慎のいつもの小犬のような笑顔。私はそれを信じていればいいんだ。
「・・・真由、真由っ」
「あ、ごめん。何?」
「時計を見たまま、ぼんやりしてるから。いよいよだね、慎くん」
「緊張して気分が悪いって」
「そっか。慎くんなら大丈夫、なんて私たちは簡単に口にできるけど、当の本人はそんなモンじゃないよね」
「がんばって、なんて簡単に言えないかな。言っちゃったけど」
「今日、テルがうちに来るからさ、2人でTVの前で大声出して応援するよ」
「私もそうする」
「真由1人で見てられる?うちに来てもいいよ」
「大丈夫よ。明日の試合、見に行こうね」
「当たり前でしょ!中ちゃんなんか、願掛けでチケットを神棚に上げてるって言ってたよ」
「私・・・TVの上に置きっぱなしだ」
「今日は残業なしで帰るよ。いいね?」
「OKです」
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