眠れない。時計はもう午前3時を過ぎている。眠れないのはシャワーの後に飲んだコーヒーのせいではない。わかっている。今日4人で飲みながら話した事を1つ1つ思い出している。
私は揺れている。久野さんに・・・
−遠距離恋愛が壊れちゃうのは相手が見えないからじゃなくて、肌で感じられないから−
慎を信じていても、もしかしたら、という不安はいつも心のどかこにあった気がする。だから、私はなかなか慎に電話をする事ができないでいた。
慎の声を聞いて自分が崩れてしまうのが怖かったのと同時に、慎の心変わりを声で感じてしまったら、という不安があった。
精神的な安定感が時間とともにバランスを崩してきているのが自分でわかっていた。慎を信じきれない自分もイヤだった
不安定になりながらもバランスをとっていた私の心は、久野さんによって揺れた。好きな人は誰?と訊かれたら、迷わず慎の名前を言える。だけど、だけど・・・
「真由?!どうした?何かあった?」
「ううん、別に。慎の声が聞きたかったの」
「本当にそれだけ?」
「どうして?」
「何でもないなら、それでいいけど。そっちは今何時?」
「3時半かな。まだ帰ってないかと思ったけど、いたんだね」
「真由・・・話があるなら言っていいよ」
「だから、慎の声が聞きたかったの。仕事でちょっとへこんじゃったのよ。それだけ」
「そっか・・・ごめんな、真由が落ち込んでるのに傍にいてやれなくて」
「それはお互い様でしょ」
久野さんが前を歩いてくれる人なら、慎は隣を歩いてくれる人なのかもしれない。
「オレも話があったから、時間をみて電話しようかと思ってたんだ」
「何?新しい彼女でもできた?」
「どういう意味だよ?!本気で言ってるわけ?」
「ごめん・・・話っていうから・・・」
どうして私はこんな事しか言えないのだろう・・・
「オレ、日本代表の候補に入ったんだ。昨日、連絡が入ったんだよ。真由にはメールじゃなくて、直接伝えたかったから電話しようと思ってて・・・」
「ごめん、慎・・・」
私は泣けてきてしまった。自分の弱さと慎の気持ちに。
「真由・・・仕事で落ち込んでたんだよな。ふてくされた言い方しちゃったよな、ごめん」
「良かったね、慎。慎はいつもがんばってるもんね。本当によかったね」
「最終登録じゃないから、まだ安心はできないけどね。結果を出さないと真由に淋しい思いをさせてる意味がないから」
慎、ごめんね。私、自分の事ばかり考えてた。挙げ句の果てに、他の人の言葉に揺れたり。私って本当にバカだよね。ごめんね・・・
「今月末から代表候補の合宿は始まるんだ。5月にこっちのリーグ戦が終わったら、なるべく早く日本に戻るよ。11月のワールドカップまでには
国際大会なんかもあるから日本に戻ってもなかなか時間が取れないかもしれないけど、帰ったらすぐに真由に逢いに行くよ」
「慎・・・逢いたい・・・電話をしたら逢いたいって言っちゃうのがわかってたから、ずっと電話しなかった・・・慎に逢いたい。淋しいから逢いたいんじゃなくて、
好きだから・・・本当に、本当に慎が好きだから・・・」
「ごめんな、真由。オレも逢いたいよ。真由に隣で笑っててほしいよ。ごめん、本当に」
私たちはお互いに黙ってしまった。時間にしたらそれほど長い時間ではないけれど、私の中をいろんな事が一気に駆け抜けて行った。
「ねぇ、慎。時計はどうしてる?」
「毎日使ってるよ。今もまだ外してないから、右腕にあるよ」
「慎・・・がんばろう。がんばって、は一方的だから、私も慎も一緒にがんばろうね」
「真由、オレにとって真由は一番大事な人だから」
「また、クサイ事言っちゃって。相変わらずね」
「うるさいよ」
「私はもう大丈夫。ちょっとへこんでたから、弱音吐いちゃった。でも、スッキリした。逢いたいのは本当だけど、元気が出た。仕事もまたがんばる」
「オレも今のリーグ戦は当然だけど、ワールドカップの登録メンバー目指してがんばるよ」
もう、吹っ切れた。バランスを崩していた揺れもおさまった。ごめんなさい、久野さん。
「慎、本当にごめんね」
「もういいよ」
ごめんねの意味は違うのよ、言えないけど。言えない、言わないの私のズルさと弱さも一緒に許してね。
「慎くん日記、楽しみにしてるから」
「うん。もう寝なよ、真由。疲れてるんだから」
「そうだね。ホッとしたら眠くなってきちゃった。そう言えば、慎太ってないよね?」
「こっちきてから筋肉はついたけど、太ってはいないと思う・・・けど」
「脂っこいものばかり食べて、お腹ぽっこりなんてイヤよ」
「気を付けます」
「そろそろ寝るね。ごめんね、急に電話して」
「真由からの電話は嬉しいけど、正直ビビるよ。他にいい人ができましたのでって、言われるかと思って」
「大丈夫。そういう言いにくい事はメールにするから」
「ああ、そうですか。それは何度も読み返せて便利ですね」
「うふふ」
「うふふじゃないよ、まったく」
「さて、寝よ。じゃあ、またね慎」
電話を切った私は、憑き物が取れたかのようにスッキリしていた。電話して良かった。やっぱり私は慎が好き。改めて自分の中で確認し、
ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
「久野さん、向こうに行ってもがんばってくださいね」
今日は、異動する人たちのための送別会。今回の異動は、久野さんと木村くんの同期の茂田くん。
「中川ちゃん、オレに感謝してね」
「何がですか?」
「本当はさ、異動は茂田じゃなくて木村だったんだよ。オレについて一緒に千葉にって話が出てたけど、教えられる事は教えたし、オレはその結果を
見たいから傍には置きたくないって、課長と部長に交渉したんだから」
「そうだったんですか?!」
「ま、オレと中川ちゃんの仲だしね」
「ありがとうございます」
「田辺ちゃんは、とうとう落ちてくれなかったね」
「すみません」
「いいって事よ。向こうに行ったら新規開拓するまでだから」
「今の彼女・・・じゃなくて、仲良しさんはどうするんですか?」
「先週別れたよ。結婚してくれなきゃヤダって言い出してさ。あれじゃ、イイ女も台無しだよ」
「それだけ久野さんの事が好きだったんじゃないですか?」
「ぜーんぜん。二課の林さん知ってる?オレの1つ先輩なんだけど」
「顔と名前だけは」
「彼女は林さんとも付き合ってたんだよ。薄々気付いてたけど、面倒にならなきゃいいかとオレも何も言わなかったの。彼女、結婚話の時に
オレと林さんの名前間違えてくれて。あの時の顔ったら、なかったよなぁ。顔良し、体良しで評判の秘書課の山口さ・・」
「秘書課の山口さん?!そうだったんですか?!」
「あーあ、言っちゃった。今のオレのマヌケな顔見た?あの時の彼女と一緒だよ。似た者同士だったって事か。内緒だよ、この話は」
「わかってますって。でも、山口さんを見る目が変わりそう」
「みんな、一皮剥けば生身のマヌケな人間って事だよ。3人ともがんばって仕事して、かわいいお嫁さんになるように」
そう言って久野さんは、男子社員の方へ行ってしまった。
「惜しい事したかな」
私の言葉に美幸と中川さんはひどく驚いた顔で私を見た。そんな二人を見て私は、ふふっと笑い料理に手を伸ばした。
みんな一皮剥けば生身のマヌケな人間、か。私は久野さんの言葉に一人で納得していた。
月のモノであまり体調の良くなかった私は、一人二次会をパスして帰ってきた。シャワーもメールチェックも終わり、ヒマ潰しにTVを観ていた。
途中から見た10時からのドラマはイマイチ内容がつかめずおもしろいと思えないのに最後まで見続け、TVは11時からのニュースを映し始めた。
政治家の汚職事件、強盗犯逮捕・・・etc遠くの世界の出来事のようで何の感情も沸かない。でも、4月から社会人になる大学生を追った特集にだけは見入ってしまった。
懐かしいな。そんなに昔の事ではないのに。
新しい世界に行く期待と不安。制服のない会社だから、毎日洋服はどうしよう。自分のお給料だけでやっていけるのか、など楽しみと他愛もない心配をしてたっけ。仕事を覚えて早く
一人前になりたいなんて思ったのは、最初だけだったかも。
研修初日、偶然隣りに座った人に一緒にお昼に行かない?と声を掛けられた。それが美幸だった。もし、隣が美幸ではなかったら、今はどうなっていたんだろう。挨拶程度の仲だったら、
当然慎の事もなかったんだろうな。全ての偶然は必然か。
特集も終わりスポーツニュースにはあまり興味がないので、少しパソコンで遊んでから寝ようかとTVのリモコンに手を伸ばした時、TVのテロップに目を奪われた。
WC・オリンピックに向け日本代表始動
「昨日、オリンピック出場をかけたワールドカップバレーボールの日本代表候補が発表され・・・」
画面には代表候補メンバーの名前が映し出されていた。
松木 慎 WS
・・・あ、慎の名前だ。本当だ、慎の名前がある・・・
電話で言っていた事を信用していなかったわけではないけれどこんな風にTVで慎の名前を見ると、やっぱり本当なんだ、という感じだった。驚きも感激もなく、ああ、といった感じ。
慎が目指すものにまた一つ近づけてよかったと思う。でも、私が最初に思い出す慎は、小犬のような笑顔の慎。どこにでもいる人。そんな慎が代表候補としてTVに名前が出ている。
そっか、あの時の慎なんだ。今、TVに名前が出ている慎は、初めて慎の試合を見て圧倒されたあの時の慎なんだ。
もっと上手くなるために、1つでも上に行くために、一人でがんばってるんだもんね。納得したよ、慎。慎にはがんばってもらわなきゃ。そうじゃないと、何のために私が一人でいるのか
わからなくなっちゃうじゃないね。
「代表選考等のための第一次合宿は明日から始まり、海外へ移籍している松木選手は移籍先のリーグ戦終了後に合流し・・・」
ワールドカップの話題が終わりTVを消した私は、パソコンに向かい慎にメールを打った。
そのうち、TVに出ちゃうのかな。トライアウトを受けて海外移籍って事で、一躍有名人になっちゃうかもしれないね。