「で、慎くんどうだった?」
「2つ受けて、2つとも合格」
「とりあえず、おめでとうだね。まだ時間はあるし、徐々にだね、真由」
「モヤモヤって考えたり、諦め半分に納得したり。自分に疲れてくるわ」
「悩め、悩め。それが人生ってもんだ」
「お昼、お蕎麦屋さんに行かない?ご飯とうどん、両方食べたい」
「久々にうどんもいいね。でも、私は蕎麦派」
慎が近くにいる普通の毎日に戻った。慎が行くことはもう変えようのない事実現実。今からこんなんじゃ身が持たない。ジタバタするのはもっとあとにしよう。
開き直りでも何でもいいから楽しめる時間は楽しもう。
いつの間にか私は慎が日本を出てしまう事を忘れたかのように普通に笑えるようになっていた。時折、思い出して少し溜息をつく程度だった。
慎の残りの試合を見に行ったり、映画や買い物、食事、タロウの散歩、私の部屋でぼんやり。どこにでもいる彼と彼女に戻れた私たち。それでも時間だけは止まる事なく、確実に前に進んで行く。
慎が所属するチームも決まり、あとは言葉を覚えられるだけ覚えて出発を待つ、そんな感じだろうか。
カウントダウンは始まっている。でも、私の中のモヤモヤはなくなっていた。慎が行ってしまったらジタバタするのだろうと思うと自分がおかしい。そんな事まで考えてしまうほどに今の私は落ち着いていた。
「慎、ちゃんと勉強してるの?観光客じゃないんだから、ボディランゲージじゃ通用しないんだからね」
「全然頭に入らない。単語は少し覚えたけど、文章はダメー。脳みそまで筋肉になってるよぉ」
「コミュニケーションが取れなきゃ、練習にならないでしょ?レギュラーポジションがほしかったら覚えろ」
「わかってるけどさ。英語が使える人がいたから、最初は英語で言って訳してもらうよ」
「その英語だって、まともに話せるわけじゃないでしょ。あと少ししかないんだから、これからは遊びに行かないでお勉強だよ」
「海外に行く事は人生設計の中に入ってたけど、語学の勉強をしなきゃいけないなんて考えもしなかったよ」
「水とありがとうと愛してるの3つだけ知っていれば、どこの国に行っても生きていけるらしいけど、生きていくために行くわけじゃないでしょ。全く言葉が通じなくてどうするのよ?」
「初心者のための〜」なんて語学の本と格闘している慎。試合の時に見せたあの表情からはまったく想像できない。
「オレ、契約継続っていう事になったら、OKすると思うんだ。そしたら・・・真由、来る?」
「慎とは一緒にいたいし海外生活には憧れるけど、簡単には返事はできないよ、まだ」
「・・・そうだよな」
もし、慎と結婚って事になったらすぐにOKですけど?
私はこの言葉を飲んだ。
一緒にいたいと思う事。それを行動に移す事。それは私にとって頭の中で考える程たやすい事ではない。慎の気持ちは十分にわかっている。だけど、まだ勇気がない。
ねぇ、慎。一緒にいる事に対して、周知の形と事実というバックボーンにしがみついてしまう私を軽蔑する?でもね、言葉や気持ちだけでは不安になる時もあるんだよ。
「テルくんにはもう話したの?」
「いや、まだだけど。美幸ちゃんから聞いてるかな」
「それはないと思う。私も美幸には口止めしたけど、美幸も慎の口から聞いた方がいいだろうからって言ってたし」
「そろそろ、言おうとは思ってるんだけどね。今から、電話するか」
慎がテルくんと話している間、私は慎のケータイにぶらさがった銀色のタロウを眺めていた。じゃ、またなと電話を切った慎は苦笑いをして私を見た。
「どうしたの?」
「テルの反応を予想してたわけじゃないけど、やけにしんみりと淋しくなるな、なんて言われるとちょっとね。高校を卒業してからは、そんなにしょっちゅう会う事はなくなったけど、いつ会っても
その前の日にもあってたような感じで付き合えるんだよ。高校の時さ、オレの前で、汗くさい部活なんてダッセーよって平気で言ったヤツがいて、、そういう事を
言うヤツの方がよっぽどダセーんだよってアイツ食ってかかってさ。言われたオレは、あ、そうって感じだったのに、テルの方が熱くなってんの。でもオレ、ちょっとテルに感動したね」
「そんな事があったんだ。この小さなタロウ、テルくんのバレンタインのお返しだって話したっけ?」
私は美幸から小さなタロウを受け取った時の話を慎に話した。
変わってねーな、テルはと慎は懐かしい物を見つけたような目で小さなタロウを見て笑っていた。
「そうだ、黒田さんの結婚式って再来週だっけ?」
「そう。6月最後の土曜日。ギリギリジューンブライド」
「再来週なら休みだから、送迎タクシーしてあげるよ」
「どうして?」
「別に深い意味はないよ。結婚式に行く格好で電車はいやだろうと思ってさ。コートを着る時期ならまだしも」
「それはそうだけど。もしかしたら二次会も出るかもしれないよ」
「どうぞ、行けば?」
「どうして?どうして、そんな事までしてくれるの?」
「真由こそ、どうして単純にラッキーって思えないの?」
「慎はいつも私に気を遣ってくれてる。だけど、遠くに離れるからって理由で気を遣ったり、優しくしてほしくなんかない」
「素直じゃないな、真由は。オレがするって言ってるんだから、それで真由の都合がいいなら勝手にやらせておけばいいんだよ。オレだってやりたくなかったらやらないし。
・・・離れてしまうから。そう、図星だよ。でも、真由が考えているような事じゃない。離れてしまったらしたくてもできない、ただそれだけ。気遣いとか優しさなんかじゃなくて、どっちかっていうと自己満足だね」
「慎ってどこかぼんやり坊ちゃんのくせに、いつもちゃんと前を向いてるんだよね。きちんと自分の考えを持って、何かに頼ろうとしない強さがあって。私ね、慎と一緒にいるようになってから変わったって
自分でもそう思う。けれど、やっぱり慎には追いつけない。追いつけないのは、慎は自分の中に目標があってそれに向かっていて、私が向かっているのは慎だからなのかな。向かっている先が見てる方向が違うんだなって思うと
時々淋しくなるけどね」
「真由は真由でいいんだよ。それにオレは真由が思うほど強くないよ。日本を出る事は前から考えてた事なのに、真由と離れたら真由がいなくなったらって思ったら、やっぱりやめようかと何度も思った。オレの中の迷いを消して、背中を押してくれたのは真由なんだよ。
だから、どっちが先を行ってるとか見てる方向が違うなんてオレは思った事はないね。オレは人並みに弱くて、人並みに強いフツーのヤツだよ。そんなオレの背中を押してくれてるのは真由って事は事実だよ。ま、勝手な言い分かもしれないけどね。それから・・・」
ケータイをいじりながら話していた慎は顔を上げ、私の目をじっと見つめた。
「ぼんやり坊ちゃん言うな」
真顔でそんな事を言う慎がおかしくて、私は吹き出してしまった。そして慎をソファに押し倒し、わたしから口唇を重ねた。
「どうしたの、急に?」
「うふふ。たまにはいでしょ。でも、この先はなしよ」
「それは残念」
「慎がいない間、私が二股なんかしてたらどうする?」
「真由はそういう事ができる人なの?」
「今の所、そういう経験はないけどね」
「やるなら、オレにわからないようにやって。距離があるから、オレは張り合えないからね」
慎の気持ちをわかっているくせに試すような事を言うなんて、私は本当にイジワル。私は慎の肩にのせた手に力を込めて答えた。
「二股も浮気もしないよ」
「オレがしたら、ごめんね」
「嘘ッ?!」
思いがけない慎の返事に驚いて私は体を起こした。
「嘘だよ。しないよ」
もうっと頬を膨らませる私を慎は抱き寄せ、私たちは長い口づけをした。
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