起きると窓の外には朝日がなかった。どんよりとした灰色の空。あんなに幻想的に見えたのは自分の勘違いだったのかと思えるくらい外は重く見える。
暖房をつけ、TVで朝の様子をチェック。昼頃からは少し晴れるらしい。そして、どうやら私の乗る電車は遅れている。確認の為、駅へ電話を入れると同じ答えが返ってきた。
いつも通りに行って寒いホームで待つか、少し遅れて出掛けるか。私は当然、後者を選び普段より10分遅く玄関のカギを閉めた。
駅には思っていた程の人はいなかった。私がのんきに家にいる間に徐々に普段の運行へと戻ってきているようだった。
どうせだったら、あと1時間くらい電車が止まってくれたらよかったのに。
到着した電車に何とか乗り込み、私は会社へ向かった。
30分以上遅刻したのにまだ来ていない人が数人いた。その中には課長と美幸も入っている。美幸と同じ沿線の太田さんは来ているのに。
課長がいないので、みんなでコーヒーを片手におしゃべりしながら仕事を始めていた。
「おはよう。みんな大丈夫か?」
課長の声が聞けたのは私がコーヒーを持ってぼんやり外を眺めている時だった。そして、その後ろには美幸がいた。
「絶対、電車が止まるか遅れるだろうからのんきにTV見ててさ、気がついたらとんでもない時間になってたよ。まだ電車が遅れ気味だったのが不幸中の幸いってやつ?
駅に着いて急がねばと思ってたら、課長に会ってしまった」
「マイホームパパのお家は遠いからね。昨日、慎が美幸ちゃんは大丈夫?って言ってたよ」
「課長んちの方は完全に止まってたみたい。慎くんに愛してるって必ず伝えてよ」
「はいはい。でも、同伴出勤なんてびっくりよ」
「私が一番びっくりだって」
「そうそう、中川さんが横浜の試合、一緒に行くって。彼女、中学の時バレー部だったんだって」
「背、高いもんね。テルも行けると思うって。早く見たいな、慎くんの本気の顔。アンタは見慣れてるだろうけどさ。男が本気になった時の顔はその男の本質が出るモンよ」
「そうなの?」
「よくわかんないけど、いいのよ。とにかく慎くんの違う一面を見たいのよ」
慎の違う一面か。きっとどれも本当の慎なんだろうけど・・・考えてみると私も慎が本気になった顔なんて見た事がないような気がする。これまで意見の食い違いがあっても
ケンカらしいケンカは一度もない。みんなが知らない慎を知っているのに、私はみんなが知っている慎を知らない。仕方がなかったとは言え、慎はそれをどう思っていたのだろう。
私はいつも自分の事ばかりで、慎の事をきちんと考えていなかったのかもしれない。
「へぇ、田辺さんの彼ってそうなんだ。私も見に行きたいけど、彼の両親にお呼ばれしちゃってて。断りにくい相手だし」
「ベスト4に入ったら東京でやるから、ヒマがあったら見に来てあげて」
「彼、ポジションはどこなの?」
「うんとね・・・ウィングスパイカー?アタックを打つ人」
「誰もが憧れるポジションね。すごいな」
「やっぱり慎くんってすごいの?」
「趣味じゃなく仕事でやってるわけだから、それ相当の実力とプレッシャーに耐えられる精神力が必要でしょ。そのメンタルな部分を支えてるのが田辺さんって事でしょ?」
「私はそんな・・・」
「真由もそうだけどさ、慎くんは真由にベタ惚れじゃん?見た目は人それぞれ好みがあるけど、中身はたいていの女は惚れるね。周りに気を遣えるし、優しくてマメで。
そんでもって女に対してはちょっと不器用な所がかわいかったりして」
「美幸、褒めすぎじゃない?」
そこまで言われると照れて笑うしかない。
「昨日の雪だって、私の事も気に掛けてくれたんでしょ?ホント、譲ってほしいわ」
「田辺さんの彼の話を聞いてると、結婚は早かったかなって思っちゃう」
「何言ってるの、クロ?将来有望なエリートを掴まえたくせに」
「掴まえたって、人聞きの悪い。付き合おうって言ったのは向こうです」
「ね、もう1回田辺さんの彼の写真を見せてよ」
「ええ?」
「では、私が最新版をお見せしましょう。年末に撮ったものでございます」
美幸はバッグから4人でやった忘年会の時の写真を出してきた。
「真由に渡そうと思って持ってきたの」
「好みは人それぞれって言うけど・・・カッコイイよね、クロ?」
「私・・・好きかもこの手の顔。うふふ」
「4人とも基本的な好みは同じなのか、慎くんは誰が見てもカッコイイのか・・・真由、やっぱり譲っちくりー」
「それは慎に直接交渉してください」
「おい、お前らそろそろ時間だぞ」
同じ店で昼食をとっていた梶原さんと森さんだった。そして、中川さんに目配せをする木村くん。それをサラッと流す中川さん。
まだまだ彼女の方が一枚上手なようだ。
雪のアクシデントは火曜の朝で終わり全てが普段へと軌道修正され、木曜の今日は仕事が終わったら慎と時計を買いに行く。
絶対定時に帰ろうといつもよりまじめに仕事をしているような気がする。時計を何度も見て時間を確認するけれど、まだこんな時間、と
思うのではなく、あと何時間、と無意識にカウントダウンをしていた。
残り時間に対し、まだ、と思うか、あと、と思うか。適度な緊張感が楽しくて仕方なかった。
「お待たせ。待った?」
「今、来たところ」
お約束のような返事。本当は少し待ったはずなのに。
「真由はどんなのがいいの?」
「そうだな、シンプルで飽きが来ないようなの」
「すぐに飽きられちゃ困るよ」
「ははは。今日ね、お昼を前に話した4人で食べてたの。そしたら美幸が慎の事すっごく褒めてたよ。優しくてマメで、ちょっと不器用な所がかわいいって」
「は?美幸ちゃんに何話してるの?」
「別に。美幸が慎と会ってそう思ったんじゃないの?慎くん譲っちくりーって言ってた」
「で、真由は何て答えたの?」
「直接交渉してくださいって」
「交渉されたら、どうしようかな」
いじわるそうに私の顔を見る慎。
「私の顔を見ても仕方ないでしょ?慎が自分で決める事なんだから」
「じゃ、そうする」
私の言った事は正論だけれど、慎の反応にはちょっとカチンときてしまった。どうもそれが顔に出ていたらしく、私をからかいながら逃げる慎を追いかけた。
私が追いつけるように前を行く慎。これからもずっとそうありたい。
「どれにしようか?迷うね」
照明に照らされた時計たちはツンとすました顔で行儀良く並んでいる。
「真由が気に入ったのでいいよ」
「ダメ。それじゃ一緒に来た意味がないでしょ?慎も探してよ。だいたい、慎の誕生日プレゼントを買いにきてるんだよ」
いつも女物の時計しか見ていないので、ペアウォッチはどれも同じようで少し味気なく見えてしまう。
これは?と慎が言ってきた。
薄い水色の文字盤に針の色はブルー。秒針だけがシルバーの時計だった。
慎の誕生日プレゼントなのだから慎が選んだ物にしようと思っていたけれど、私もこの時計が気に入った。
店員を呼び、腕周りのサイズを調節してもらい、その2つの時計は私たちの許へやってきた。
夕食のオーダーをし運ばれて来るのを待つ間、慎は早速その時計を右腕につけた。
「ね、私、やっぱり自分の時計は自分で払うよ」
「どうして?別にいいじゃん」
「だって、慎の誕生日プレゼントを買いに来て、私が慎に買ってもらったんじゃおかしいでしょ?」
「プレゼントのお返しって事にしておけば?」
「私、慎にお返ししてないよ」
「プレゼントは催促するには理由が必要だけど、贈る方には理由はいらないよ。理由がなきゃ、何もあげられないの?」
「そういうわけじゃないけど・・・でも、どうしてこんなに早く買いに行こうなんて言ったの?これからはそんなに忙しいの?」
「忙しいは忙しいけど。明日から真由が実家に戻るっていうから。だから」
「だから?戻るけど、月曜には帰ってくるよ。それとどういう関係があるの?」
「夏、真由が実家に戻った時、ちょっと淋しいなって思ったんだ。何て言うかさ、実家に戻った事が淋しいんじゃなくて、あの部屋に
真由がいないんだって思ったら、ちょっとね。別に帰るなって事じゃないから、それは誤解しないでほしいんだけど。オレも明日から移動だから
いないのはお互い様だけど、真由が帰る前に買いたいって思ったんだよ。・・・でも、オレはこれから真由にそういう思いをさせちゃうんだよな」
「また始まった。だから、そういうのは合格してから言いなさいって。明日からこの時計するね。ありがとう」
「いえいえ、ボクこそ誕生日のプレゼントをありがとうございました」
それから、慎とコタツの相性が悪い話をすると慎は笑っていた。
「オレがコタツにヤキモチ焼いてるって事?コタツで寝ちゃいけませんよって警告だよ」
「あと少し・・・もうダメ・・・堕ちる・・・って時にケータイが鳴るんだよ。飛び起きて心臓バクバク。警告ならもう少し早めにして、心臓に悪いから」
「努力するよ」
いつものように慎は改札まで送ってくれた。
「明日は気を付けて帰るんだよ」
「もう、はじめてのおつかいじゃないんだから。心配性はハゲやすいんだって」
「嘘?!」
「ウ・ソ。ちょっと言ってみただけなのに、こんなに反応してくれるなんて。私の勝ちだ」
舌打ちをした慎が突然口唇を重ねてきた。時間にすれば1秒もなかったかもしれない。
「・・・びっくりした」
「ザマーミロ、おあいこだ」
電車が間もなく発車するとアナウンスが流れたので、私たちは手を振り別れた。電車に乗り込んだ私は、降りるまでずっとうつむいたままだった。
慎の突然の行動を思い出すたびに一人笑いをしてしまう私を隠すために。