砂の城 1/6 |
昼前から雨が降る木曜日だった。時計は午後の2:40を指している。 そろそろ彼女が来る頃だ。でも、今日は雨だから来ないかもしれない。 そんなことを考えながらぼんやりと外を見ていると、ウィンドウの右端に彼女の横顔が見えた。 「いらっしゃいませ」 テーブル7つ、カウンター7席、そしてグラム売りする紅茶の葉とコーヒー豆。 ここは、コーヒー豆と紅茶葉を輸入する小さな会社を営む父が母のために作った店。入院し、あっけなく天国に逝ってしまった母の代わりに僕が店長になって3年。立地条件のよいこの店は、予想以上に繁盛していた。 彼女はいつものように窓際の入り口から2番目のテーブル席に座る。 「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」 「アールグレイをホットで」 「アールグレイですね。では、少々お待ち下さい」 僕がカウンターに戻ると彼女はバッグから本を出し、読み始めた。 週に一度、木曜の午後に来店する彼女はいつも紅茶を注文する。彼女の存在に気付いてから、そろそろ3ヶ月が過ぎようとしている。 ティーポットの中が十分に蒸れ、彼女のテーブルに運ぶ。 「お待たせいたしました。アールグレイです」 「あ、すみません」 僕を見上げ、小さな声で返答する彼女。僕は1杯目をカップに注ぎ、ティーポットを置いて店員らしく軽く会釈をしてカウンターに戻る。 カウンターに戻った僕は誰にも気付かれないように彼女を盗み見る。彼女は両手でカップを包み、音もなく降る雨を見ていた。 僕は彼女の事を何も知らない。知っているのは、週に一度、木曜の午後に一人でここへ来る事だけだ。 彼女の存在に気付き、それがそのうち気になる存在に変わっていったが、店長という立場上女性客に気安く声をかけるのはどうか、という大義名分のもと自分の度胸のなさを誤魔化していた。 「店長、3時はどうしましょう?」 「そうだなぁ。2時のお客さんがいないから、さっきと同じでいいよ」 「はい、了解」 前店長の提案で午後は時報代わりに楽器の生演奏をする。店の奥には、アップライトのピアノとエレクトーンが置いてある。それ以外は自分の愛用の楽器を持参するのだ。 この生演奏は客の評判がよく、平日の午後は有閑マダム達の憩いの場になっているようだった。 常連のマダムには、「今日は何を聴かせてくれるの?」、「今度は××をリクエストしたいわ」などと声を掛けられる事もある。 今日は閉店までエレクトーンの佐伯が担当している。 佐伯は客席に軽く頭を下げ、演奏を始めた。曲は2時と同じエレクトーン用にアレンジされたスロージャズとショパン。 視線を彼女の方に戻すと、彼女は真剣に曲を聴いているようだった。そして、演奏が終わり、20分ほど経つと彼女は店を出ていった。 今日も何も話しかけられなかった僕は、憧れの先輩を教室の窓から見つめる女子中学生のようだ。 そんな風に思うと自分の事がかわいらしく思えてしまう。26にもなって男らしくないな、と。 次の木曜も彼女はやってきた。いつもと寸分違わない僕と彼女の行動。帰って行く彼女の横顔を見ながら、来週こそ、と小さな決心をした。 僕のその小さな決心に神様が味方をしてくれたのか、そのチャンスはやってきた。 その週の木曜は祭日で、午後はテーブル席が全て客付きになっていたのだ。 彼女は店内を見渡し、仕方なさ気にカウンター席に座った。 「いらっしゃいませ」 「ムスクの紅茶を。ホットで」 「ムスクですね。少々お待ち下さい」 至近距離にいる彼女に、僕は年甲斐もなくドキドキしていた。ティーポットにお湯を注ぎながら、やっぱり彼氏がいるのかなぁ、いや、平日に来るという事は旦那付きか?などと、 頭をよぎったがその時はその時、次のチャンスはいつ来るかわからない、と自分自身に気合いを入れた。 「お待たせ致しました。ムスクです」 「あ・・・・すみません」 「いつもご来店ありがとうございます」 「・・・え?」 「お客様、いつもあちらの席で紅茶をご注文して頂いてますでしょう?」 「え・・・ええ」 「お好きなんですか、紅茶?」 「いい匂いがするから。それにここには、私の知らない紅茶がたくさんあるし」 「店長。お客様、ちょっと失礼します」 佐伯だった。 「どうしましょう、3時。2時は原口さんのピアノだったから、映画の曲でいいですかね?」 「そうだな・・・あ、お客様、何かリクエストはございますか?」 彼女はびっくりした顔で僕を見ていた。 「3時はエレクトーンの演奏なんですが、リクエストがあればお応えします」 あ、弾ける曲にしてくださいね、と佐伯はカウンターの後ろから譜面集を数冊取り出し、彼女に渡した。 彼女はおずおずとそれを受け取ったが、表紙を見ているだけで開こうとはしなかった。 「あの・・・”G線上のアリア”・・・お願いしてもいいですか?」 「アリアですね。2曲やりますから、もう1曲どうぞ」 「・・・いえ、私はそれだけで・・・」 「そうですか?じゃあ・・・アリアとカノンで。いいっすか、店長?」 「ああ、頼むよ」 こんな綺麗なお客様のリクエストだなんて緊張するなぁ、と佐伯は笑って準備を始めた。 「アリア、お好きですか?」 「昔、母がよく聴いていたので」 「いい曲ですよね。エレクトーン用にアレンジしてあるから、ちょっとポップな感じになってますけど、それはそれで親しみ易いかと思うんですよ」 「そうですね」 初めて彼女が笑顔を見せてくれた。 「そうだ。えっと・・・今度の月曜の午後はヴァイオリンを弾く女の子がバイトで入ってますから、よろしければ月曜にまた来てください。彼女のアリアも素敵ですよ」 「みなさん、音楽をやっていらっしゃるんですか?」 「バイトはみんな音楽関係ですね。学生とかピアノの先生とか。僕は聴き専門ですけどね」 佐伯がカノンから演奏を始めた。 彼女は佐伯の方をじっと見つめている。 もしかして、佐伯目当てで・・・? 僕は少しだけ佐伯に嫉妬した。 |