僕と寝た後、カオリさんは少し哀しそうな顔をする。
初めは旦那さんに対する罪悪感がそうさせるのかと思っていたけれど、そうではないらしい。多分、カオリさんの癖なんだと思う。
カオリさんはいつも仕立ての良さそうな、大学の女友達は持っていないような、要は少し値段の張る高そうな下着を身に着けている。
「お姫様になった気分になれるから。申し訳ないけど、アツシくんのためではないのよ」
キレイな下着だね、と僕が褒めるとカオリさんはくすっと笑ってそう答えた。
そう頻繁に会うわけではないけれど、普段からそうなのだろうというような雰囲気でカオリさんは質の良さそうなものをさらっと何でもなく着こなしている。
高そうな下着にしても、夫以外の年若い男の子に会うから見栄と気合で身に着けてきましたという感じがしない。というより、初めからカオリさんにはそんな意識がないのだと思う。
3LDKのマンション。子供のいないカオリさん達はそれぞれの部屋で寝る。元々帰りの遅い旦那さんとは、「静かな生活」だという。
仲が悪いわけではなく、お互いに干渉しないだけらしい。
干渉しないのか、無関心なのか微妙だけどね、とカオリさんは笑う。
「この前ね、夏物のスーツを新調するからって2人ででかけたの。彼が試着してる時、ぼけっとネクタイを眺めてたらお店の人が、素敵な旦那様ですね。お2人とも背が高くてお似合いのご夫婦ですね、って。
お世辞なのはわかってるけど、何も知らない人にはそう見えるんだなと思ったら、おかしくなっちゃった」
「旦那さんの事はわからないけれど、カオリさんはキレイな人だと思うよ」
カオリさんと歩いて見映えがするのだから、きっと旦那さんもスーツを難なく着こなせる大人なカッコイイ人なのだろう。
「本当にキレイな人はね、自分で楽しい事を見つけられる人よ」
どこにでもいる程度とカオリさんは自分を評価するけれど、お世辞ではなく僕はキレイな人だと思う。右から見た横顔より左からの方がキレイに見える。前髪の分け具合のせいかもしれないけれど。
キレイでも気取りがなく話せば楽しいカオリさんをどうして旦那さんが無関心でいられるのか、僕にはよくわからない。
カオリさんの旦那さんは自分の事しか考えない人らしい。他人にワガママをいう自分勝手ではなく、単に自分の事だけ。自分の興味のない事にはとても無関心なのだと。そして、カオリさんもその「興味のない事」に入っていると。
「家の事をそれなりにやっていれば、うるさい事は言わないから楽といえば楽よ。自分が外に出て仕事をして遊ぶのに支障がなければね」
「遊ぶ?」
「彼女がいるみたいよ」
「どうしてそう思うの」
「なんとなく。でも、多分いると思うわ。一緒に暮らしてるんだもの、それくらい気付くでしょ」
「カオリさんは平気なの?」
「あ、そうなんだって思っただけかな。これまで通りの静かな生活が続くならそれでいいって感じ。彼女ができたからって私に接する態度が変わったわけでもないしね。体裁屋の彼のおかげで私は不自由なく生活してる。短気な人ではないから、多少家の事で手を抜いても怒らないし」
カオリさんの言っている事は半分本当で、半分は強がりなんだと思う。全てが本当で、全てを割り切っているなら青空を見て「哀しいくらいいいお天気ね」なんて言わないと思うから。
「そういえば、仕事はどう?順調?」
「うん。楽しい」
カオリさんはさっきまでの少し物憂げな様子を吹き飛ばすように、笑った。
少し前からカオリさんは時々雑誌に載ったりする雑貨屋さんで働き始めた。
本当はスーパーやドラッグストアで働きたかったと言う。人のたくさんいる賑やかな所で。でも、旦那さんに反対された。そんな所で働いたら自分の稼ぎが悪くて仕事をしていると思われるじゃないかという理由で。旦那さんの体裁を崩さない、例えばギャラリーの受付のような仕事なら何も言われなかったのかもしれない。
「旦那さんの事、愛してる?」
「どうなのかなぁ。別にキライという言葉は使えないけど。結婚ってさ、生活なのよね。ご飯を食べて寝るって単純な事だけじゃなくて。働いてお金を稼いで、そのお金をどう使うか考えて。お金もかかれば、ゴミも出る。CMのように洗濯物が真っ白なシャツだけなんてありえない。子供がいないから大人の考えで進めていけるけれど、彼氏彼女の頃とは違うわね。
季節の折には嫁として動かなきゃいけないし。そういう当たり前の毎日を送るための下準備みたいなものが生活じゃない?そんな事を繰り返していくと男と女って感覚が薄れてきちゃうかな。よく言えば、家族になるって言うか。当たり前の毎日を彼も私もそれぞれのやり方で作っていってるだけなのかなって思うようになったの」
「何でもちゃんとこなしちゃうから、旦那さんにはカオリさんのする事が当たり前になっちゃってるのかもね」
「それも困っちゃうわね。私はお手伝いさんじゃないんだから」
「早く彼女と別れてくれるといいね」
「さあ、それは私がどんなに努力をしたとしても彼と彼女次第だから。アツシくんもね、お母さんはお手伝いさんじゃないのよ、いい?」
「あはは。耳が痛いなあ。感謝の気持ちは忘れないように気をつけるよ」
「おざなりなありがとうじゃ、意味がないんだからね」
「かしこまりましたっと。あのさ、全然話が違うんだけど」
「なに?」
「カオリさんって香水とかつけてないよね?なのに、いつもいい匂いがする」
「リネンウォーターかな」
「なに、それ?」
「洗濯した後やアイロンの時に吹きかけると香りが残るの。でも、下着にしか吹きかけてないんだけどわかった?」
「つけてますって感じじゃなくて、なんていうのかな、ほのかに柔らかい匂いがする」
「あ、枕やシーツにもシュッシュッってしたりするからかな」
「何の香り?」
「私のはラベンダー」
「いい匂いだね。カオリさんのお店にもあるの?」
「あるわよ。何種類かあるから今度2,3本見繕ってきてあげる。ルームコロンにもなるしね」
「ありがとう。楽しみにしてる。カオリさん、変わったね」
「そう?どこが?」
「どこが?って言われると困るんだけど、仕事をする前と今じゃどこか違う」
「嫌な変わり方?」
「逆だよ。良くなったと思う。前より笑うようになったかな」
「近くに知り合いがいなくて、話すのはご近所の顔見知りと挨拶くらいだったからかな。買い物と図書館以外に外に出る事もあまりなかったし。結婚する前はフツーに会社員してたなんて自分で不思議に思った事もあった。人と接するってイイコトばかりじゃないけれど、でも私には楽しい事なの。それに今のお店って私の好きな物がたくさん並んでて。好きな物に囲まれていると
優しい気持ちになれる気がするの。最後の1つが売れる時には、売りたくないって思っちゃったりする」
カオリさんは少し肩をすくめて、いたずらを見つかった子供のように笑った。前はそんな風に笑ったりする事はなかった気がする。
「今は結構幸せなんだね」
「うん。そうかもしれない。普段は何とも思わないけど、あ、幸せなんだってふと感じるくらいが性にあってるかな。そうそう、この前ね、一人で買い物に出たの。一休みしようかなと思った所にちょうどカフェがあって。よく本日のケーキとかって書いてあったりするじゃない?でもそのお店ね、今日のおやつ ホットケーキって小さな黒板に書いてあったの。それが気に入って入ったんだけど。
ホットケーキとミントティを頼んで、オーダーの時に持ってきてくれた水を飲んだら、水じゃなくてレモン水だったの。薄っすらとレモンの味と匂い。ただの水かと思ってたから、なんだか得した気分で嬉しくなっちゃった。あ、ホットケーキもおいしかったわよ」
「そういうさ、他愛もない事に喜べるってイイコトだよね」
「マンションの同じフロアに若いご夫婦がいて、たいていいつも手をつないでるの。仲良し甘々ムードたっぶり。べたべたしすぎると見てて嫌になるけど、そんな感じではないの。その2人を見てると私までいい気分になれそうなの」
「カオリさんはそういうのが好きなの?」
「キライじゃない、かな。昔はよくやったなぁって感じ。旦那さんとはもう少し会話があってもいいかなとは思うけれど、私は今の薄甘い水に浸ってるくらいがちょうどいい」
「ラベンダーのリネンウォーター、薄甘い水、高価な下着。全部カオリさんらしいよ」
高価な下着って何よと笑うカオリさんに後ろから腕を回し、首筋に顔を寄せると髪からほのかにラベンダーの柔らかい香りがした。
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