実家から戻り、カレンダーに書き込んだ「健太郎 帰国」の文字を見ながら私はワインを飲んでいた。
あと少し。もう少ししたら、健太郎が帰ってくる。
そう思うと嬉しくて、一人でに笑ってしまう。
シャワーを浴びてからまた飲もうと私は、テーブルの上をそのままにバスルームへ行った。
空港へ健太郎を迎えに行って、夜はどこで食事をしようかな、一度会社に顔を出すのかな、などと鼻歌まじりに上機嫌でシャワーを浴びていた。
バスタオルを頭に掛け、濡れた髪を拭きながらリビングへ戻ると、「よっ」と声を掛けられた。驚いて顔を上げると、健太郎がソファに座っていた。
「健太郎?!どうしたの?!帰ってくるのって今日じゃなかったでしょ?」
「うん、まぁな」
「びっくりしたぁ。どうして教えてくれなかったの?」
「ま、いろいろ」
「荷物は?」
「荷物はあとから。水色の小さな袋に朝美のお土産が入っているから」
「うん、ありがと・・・でも、どうして?どうして帰ってくるって言ってくれなかったの?」
「うん?ま、いろいろ」
「健太郎、シャツどうしたの?肩が汚れてる」
本当だ、とシャツをチラッと見て、健太郎はグラスにワインを注いで飲んだ。
「グラス、持って来るよ」
「いいよ、これで」
「帰って来たんだね、健太郎。おかえり」
どうして?はたくさんあったけれど、健太郎が帰ってきた事が嬉しくて仕方がなかった。また健太郎と一緒にいられると思うと幸せでいっぱいだった。
隣りに座り、体を寄せると健太郎は私の肩を抱いてくれた。お正月に逢ってから今日までの他愛ない私の日常や今度、旅行に行こうなど、私は一人でしゃべっていた。
自分でもおかしいくらいにはしゃいで話し、ワインを飲む私。そんな私を見て、健太郎は笑っていた。
お酒は弱い方ではなかったけれど、はしゃいでハイペースに1本をほとんど一人で空けてしまい、酔いが回った私は眠くなってきてしまった。
「一人で騒ぎすぎだよ、朝美」
「だって、健太郎が帰ってきて嬉しいんだもん」
普段なら照れて言えないようなセリフも酔いのおかげで素直に出てくる。
「健太郎・・・・愛してる」
「ん?オレも朝美の事、愛してるよ」
私たちはきつくきつく抱き合い、口唇を重ねた。
ふと気付くと明け方で、私はソファに横になっていた。どうやら、睡魔には勝てずそのまま眠ってしまったらしい。
そう言えば、健太郎はどこに行ったのだろう?
健太郎の名前を呼んでも返事はない。寝室やバスルームにもその姿はなかった。コンビニにでも行ったのだろうか?今の時間に近所で空いている店はコンビニくらいしかない。
ソファでぼーっと健太郎が帰ってくるのを待つけれど、30分過ぎても帰って来ない。コンビニは5分もかからない所にあるのに、遅すぎる。本は座って読む主義と健太郎は立ち読みはしない。
本当にどこに行ったのだろう。
それとも・・・私は酔って夢を見たのだろうか?早く帰ってきてという気持ちが、私に健太郎の夢を見せたのだろうか?
夢にしてはリアルだった。私は確かに健太郎に抱きしめられ、口唇を重ねた・・・・と思う。でも健太郎は今、いない。いないどころか、部屋には健太郎がいた跡も気配すらも残っていない。
昨日、私の隣りに健太郎がいた事は夢?妄想?
私は自分の記憶に自信がなくなってきた。わけがわからなくなり、落ち着こうと冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、グラスを使わずにそのまま飲んだ。そして、冷蔵庫に寄りかかり、部屋を見渡した。
どういう事?酔ってたから?私、頭がおかしくなっちゃったの?
溜息をつき、ぼんやりとテーブルを見ると、そこには空になったワインの瓶とグラスが1つ。せめて、グラスが2つなら・・・・ううん、2つあっても今ここに私一人しかいない事の説明がつかない。
そして、ソファには私が掛けていた毛布。毛布はシワを作ってだらしなく半分落ちかけている。
・・・・毛布・・・・?!
私、寝室から毛布を持ってきた憶えなんてない・・・!
回らない頭で、もう一度昨日の夜の事を思い出してみた。健太郎との最初の頃の記憶は鮮明に思い出せるが、最後の方は酔って記憶が途切れ途切れになっているような気がする。
いつ?私はいつ毛布を寝室から持ってきたのだろう?酔って、自分でわからないうちに持ってきたのだろうか?
頭の中が混乱してきて私はソファにドカッと座り、毛布を見つめていた。
・・・・違う・・・・思い出した・・・目が覚めるまでの私の最後の記憶を。
ソファに横になって、私はウトウトとし始めた。そして・・・・
「風邪引くぞ」
そう言って健太郎が私に毛布を掛けてくれた。
そう、そうよ。絶対にそう。でも、そしたら健太郎は?健太郎は、どこに行ったの?もうすぐ帰ってくるの?
もうわけがわからなかった。健太郎がいないのに、私の中には健太郎との記憶や感触が残っている。
一体、どういう事・・・・?
私が頭を抱えていると、電話が鳴った。誰よ、こんな朝早くに。呼び出しのコールは、私のイライラを増長させた。
年末年始を過ごした健太郎の部屋は、春になったせいか少しだけ雰囲気が変わったような気がした。実際は何も変わっていないけれど、寒いNYの冬が終わったからそう感じただけなのかもしれない。
ベッドルームに行くと、帰国を目の前にした冬物の洋服たちは既に箱詰めされ、ヒコーキに乗るのを待っている。スーツケースには、秋冬用のスーツがキレイにしまわれていた。きちんと整えられたベッド。
相変わらず、几帳面ね。私は、ベッドシーツの1カ所だけシワが寄った、おそらく健太郎が座っていただろう場所に腰をおろした。
ベッドサイドの小さなテーブルには、小振りなライトと写真が飾ってあった。私と健太郎が笑っている写真。
「はい、川田です」
あの朝、私は不機嫌に電話に出た。出るつもりなどなく無視していたけれど、コール音は鳴り続いていたのだ。
「もしもし・・・・?あの、NYで川田と一緒に仕事をしてる石田と申しますが」
「あ、はい。川田がいつもお世話になっております・・・」
健太郎の、NYの同僚?
「日本で言うと昨日・・・なんですが・・・川田、帰国の準備って事で休みを取ってたんですよ・・・で、タバコか何かを買いに出たらしくて・・・・」
「・・・・はい」
「ちょっとそこまでって程度の外出だったらしくて、ポケットに直接金を入れてて、財布は持ってなかったものですから・・・・」
「申し訳ありません。ちょっと、お話が見えないんですが」
「・・・・そうですよね、すみません。僕もまだちょっと・・・・川田、事故に遭ったんです。救急車で病院に運ばれたんですが、ダメ・・・・で・・・・小銭だけで外に出たらしくて、身分証の類は何もなくて・・・・
僕たちの方に連絡が入ったのも今なんです・・・」
「健太郎が・・・・事故・・・・?ダメって・・・・健太郎が死んだ・・・・って事ですか?」
「・・・・もうすぐ・・・・奥さんの所に帰れるって・・・・アイツ、すごく喜んでて・・・・なのに・・・・なのに、どうしてこんな事になっちまったのか・・・・」
涙声で途切れ途切れに話す石田さんの声を、私は夢を見ているような気分で聞いてた。
やはり昨日の夜、健太郎がここにいたのは私の思いこみだったらしい。妄想が幻覚まで作ってしまったという事のようだ。
電話を切り、とにかくNYに行かなければ、と私はパニックを通り越して朦朧とする頭でヒコーキに乗る準備を始めた。
NYに着くと私はすぐに石田さんに連絡を取り、病院へ連れて行ってもらった。当然ながら、私と石田さんの会話以外は全て英語だから何を言っているのかわからない。
私の方を向き、伏し目がちに訳してくれる石田さんの日本語を聞いてもまだ実感がなかった。歩き出した病院の人と石田さんの後ろを私は、とぼとぼとついていった。
そして、やっと健太郎に逢えた。健太郎は冷たく、何度名前を呼んでも返事をしてくれなかった。ベッドサイドには、事故当時健太郎が着ていたというシャツが畳んで置いてあった。血などほとんど付いていないそのシャツは
私が健太郎に肩が汚れていると言ったシャツだった。
もう何が何だか全然わからない。何も応えてくれない健太郎を前に私は、大声で名前を呼び、ひどく取り乱していた。石田さんに健太郎の部屋まで送ってもらうまでの記憶がはっきりとしないくらいだった。
病院から持ち帰ったシャツを袋から出し、何を思うでもなく見つめ、そして目を閉じた。
健太郎は、確かに来た。このシャツを着て。
最期に私に逢いに来てくれた。私と笑いあって、抱きしめて、口づけをしてくれた。そして、酔ってうたた寝し始めた私に「風邪引くぞ」と毛布を掛けてくれた。
絶対に私の思いこみなんかじゃない。私は確信を持った。
目を開けると、スーツケースの中に水色の物が見えた。何だろうとスーツをどかすと、小さな水色の紙袋だった。
水色の袋に朝美のお土産が入ってるから
袋の中の小さな箱には、袋と同じ色のラッピングペーパーで白いリボンが掛けてあった。ゆっくりとそれを開けると、指輪が入っていた。内側には、ASAMIと私の名前があった。
ほら、やっぱり健太郎は来てくれたのよ。私は健太郎がこのシャツを着ていたのを覚えている。水色の袋に私のお土産が入ってると言ったのだって、覚えてる。健太郎が私を愛してると言ってくれたのも、きつく抱きしめてくれたのも、
何かも覚えてる。健太郎の感触が私の体に残っている。
何もかも夢なんかじゃない。全部本当だよね?ねぇ、健太郎、そうだよね?
病院であれほど泣き叫んだのに、また涙がこぼれ始めた。
健太郎・・・・ 健太郎・・・・
私は指輪を両手で握りしめ健太郎の名前を何度も呼び、泣いた。
窓から入る5月の日射しは、ベッドサイドに飾られた私と健太郎の写真を優しく照らしていた。
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