希望の館 2/2

 「もうここには馴れた?」
 ここに来て何日経ったのか数えていなかったけれど、この時初めてノアールが話しかけれくれました。
 「ええ、まぁ・・・・」
 「私はね、ここに来て10年になるわ。ランとジートよりずっと古くからここにいるの。何匹ものここの住人がご主人様に抱きかかえられて、嬉しそうにここを出ていくのを見てきたわ。 絶望して、自分でドアを開けて出行った猫もいた。でも、私は信じてるの。いつか必ずあの方が私を迎えに来てくれるって。だから、何年だって、何十年だってここにいるの。 船からあの方が降りてくるのをここで待つのよ」
 ノアールは絶望のカケラも見えない真っ直ぐな視線で私を見ました。
 「私のご主人様はね、とても美しい方なのよ。美しくて優しくて、繊細な人。なのに、あの方に近づくのはいつも良からぬ事を考えている人たちばかり。だから、あの方はいつも独りぼっちだった。 あの方には、私しかいなかったのよ。・・・・あの日もいつもと同じように私はあの方の膝の上にいたの。いつものように優しく撫でてもらっていたわ。ノアール、お前はとてもキレイだねって」
 ノアールは懐かしいものを見つめるように窓の外を見ました。光に照らされたノアールの漆黒の毛は、上質なベルベットのようで本当に美しいのです。
 「僕がノアールのようにキレイだったら、一人でいる事はなかったのかなってあの方は言うのよ。独りぼっちなのはあの方のせいじゃないのに、自分を責めていたのね。ノアールは黒だから、僕は赤がいいかなって。 真っ赤なバラのようになったら、僕も少しは美しくは見えるのかなって」
 私はノアールの話の続きが何となく想像出来てしまい、何故だかわからないけれど息を潜めてしまいました。
 「白いシャツがよく似合っていてね、その日も白いシャツを着ていたの。でも、その白いシャツはだんだん赤く染まっていったわ。白いシャツが真っ赤に染まっても、あの方は自分を傷付ける事をやめなかった。泣きながらナイフで 自分を傷付けていくの。私は、あの方が可哀想で・・・・あの方は何も悪くないのに。たまらなくなって私は止めに入ったの。そしたら、ナイフが私の足に刺さってしまって。それ以来、私の片足は動かないのよ」
 「・・・・ご主人様は?」
 「偶然訪ねて来た人がいて、その人が病院に行こうとかいってどこかに連れて行ったわ。それきりあの方は戻って来ないの。私も動けなくて倒れたままずっとあの方の帰りを待っていたけれど、だんだん意識が遠くなって・・・・ 気付いたら、ここのドアの前にいたのよ」
 私はノアールの話に返す言葉が見つかりませんでした。
 「キチガイの飼い主に、キチガイ猫」
 「え?」
 「私の事、そう聞かなかった?」
 「ひどい事言うのね、ノアール」
 いつの間にか、ランとジートが傍に来ていました。
 「あんたのご主人様はトチ狂っちゃったかもしれないけど、あんたの事を愛してくれてたんでしょ?ノアール、あんたも愛してたんでしょ?」
 「そうよ」
 「なら、それでいいじゃねえか。確かキチガイ呼ばわりしてたのは、トムだったよな。オレはトムが気に入らなかった。そんなトムと一緒にされるのは、気分が悪いぜ」
 「ごめんなさい。そんなつもりはなかったのよ。許して」
 「まぁ、いいさ。ノアールがキチガイ猫なら、オレは捨て猫だからな」
 「捨て猫?でも、首輪・・・・」
 「ああ、これか?マールにはまだオレの話はしてなかったか。オレは仔猫の頃から首輪なんかしてなかったんだ。でもある日、この首輪をつけてもらったんだ。旦那さんが、ごめんな、ごめんなって言いながら。奥さんは泣きながら オレを抱きしめてくれた。その次の日の夜、旦那さんと奥さんはどこかに出掛けていった。バタンとドアが閉まったきり、そのドアが開く事はなかった。オレが通れる分だけ窓が1つ開いてたけど、オレは外に出なかった。 置いていってくれたエサや水がなくなっても、外へ出なかった」
 「どう・・・・して?」
 「旦那さんと奥さんが戻って来るかもしれないと思ってたからさ。オレがいない間に戻って来たら、またおいてきぼりにされちまうってな」
 「で、気がついたら、ここにいたって事よね?」
 「そういう事だ」
 「でもさ、ジートもノアールも迎えに来てくれるかもしれないじゃない。私は、多分ダメだろうなぁ」
 「どうしてですか?」
 「あたしはさ、マヌケなんだけど、ネズミ採りの薬を間違って食べちゃって死んだの。ま、それはいいんだけどさ。あたしのご主人様はね、ボケたおばあちゃんなの。あたしの事は、ラン、ランって大事にしてくれたけど、 家族の事すらわかんなくなっちゃってたのよ。何とかホームってとこに行く事になってさ、ランと一緒じゃなきゃ行かないって大騒ぎしてた。結局、おばあちゃんだけが行っちゃったけど。おばあちゃん、いろんな事を忘れちゃって、 きっとあたしの事も忘れちゃってるだろうな・・・・」
 ランがふふふっと軽く溜息をついた。
 「私も・・・・多分・・・・来てもらえないと思います」
 「どうして?」
 「それは・・・・」
 「いいのよ、マール。自分の事は言いたくなった時に言えばいいの。誰かの話を聞いたから自分も話さなくてはいけないなんて、それは違うのよ」
 「・・・・いいんです・・・・私は仔猫の時に捨てられた猫でした。寒くて怖くてお腹が空いてどうしようもなくて泣いていた時、あの人が私を拾ってくれました。その日から、私とあの人との2人の生活が始まりました。 私は、とても幸せでした。でも、ある日私たちの生活に髪の長い女の人が入ってきました。その人も私にとても優しくしてくれました。だけど・・・・だけど、私は嫌だったんです。あの人が他の人に取られてしまうのが。あの人を見る その女の人の優しい瞳が・・・・ずっと私だけのあの人だと思っていたのに・・・・もうあの人を見つめてほしくなかったから、私は・・・・ベランダに出た女の人の瞳に・・・・思い切り爪を立てました。その拍子に私もベランダから落ちて・・・・ 下を通る人がとても小さく見えた高い所のベランダですから、私はそのまま・・・・私は、あの人が大好きでした。でも、あの人が大切に想っていた人を私は傷つけました・・・・だから、私は迎えには来てもらえないんです」
 「迎えに来てもらえるか、もらえないかはオレたちにはわからない。ここで待つのも、待たないもオレたちの自由。ただそれだけさ、マール」
 私は哀しくて、恋しくて涙が止まりませんでした。
 ランとジート、ノアールは黙って私の傍についていてくれました。
 終わりのない時間は密やかに流れ、時間の止まった私たちを柔らかに包んでいました。
 
 
 みんなが寝静まった夜更け、私は耳慣れない音に目を覚ましました。窓の外を見ると、何か光る物がこちらに近づいて来るようでした。
     ヒュイン  ヒュイン  キュイイー
 近づいて来たのは、銀色の帆を立てた真夜中色の船でした。
 瞬きもせずその船を見つめていると、船から誰かが降りてくるのが見えました。
 部屋の中を見渡すと、ランもジートもノアールも眠っているようでした。
 いいえ、みんな船が来たのがわかったからこそ、目を開けないのかもしれません。希望が絶望に変わってしまうのを、少しでも遅らせるために・・・・
 ドアが開き、誰かが入って来ました。
 誰かが入ってきたのがわかっているのに、ランとジートとノアールはまだじっと動かず、目も開けようとはしません。
 暗い部屋の中には、小さな灯りが1つ。
 その灯りに近づいて来たのは、美しい男の人でした。その人は、目で誰かを探していました。
 「ノアール?どこだ、ノアール?!いないのか?!」
 名前を呼ばれたノアールは、青い瞳に湖のように涙を溜め、片足を引きずってその人の許に来ました。
 「ノアール?!ごめんよ、ノアール。待っててくれたんだね。もうずっと一緒だよ」
 ノアールを抱き上げた美しい男の人の頬には、美しい涙が伝っていました。
 「よかったね、ノアール。ずっと待っててよかったね」
 「ノアール、たまにはオレたちの事を思い出してくれよな」
 「ええ、忘れないわ。ねえ、みんな、どんなに時間が流れても希望を捨てないで。私たちが愛した人は、私たちを忘れたりしない。そう信じ続ける事は簡単じゃないけれど、それでも希望を捨てないで。チィは70年も ご主人様を待ったのよ。ここは、希望の館でしょ?」
 「そうだな。絶望して自分でドアを開けるより、ここにいた方がましだな」
 「ノアール、あたし・・・・あんたの事嫌いじゃなかったよ。嫌いじゃないっていうかさ、あんたの上品なトコにちょっと憧れてたかもしれない。ノアールに逢えてよかったと思ってる」
 「ありがとう。ラン、ジート、マール、ご主人様じゃなくて、自分を信じて」
 ノアールは優しい眼差しを残して、ご主人様と船に乗って行ってしまいました。
 
 
 ノアールが言った「自分を信じる」という事の意味はまだよくわからないけれど、ジートが言うように絶望して自分でドアを開けるより、ここにいた方がいいのだと、それだけは何となくわかりました。
 いつかあの人が船から降りてくるのを待とう。
 諦めて、絶望するのはもっと先でいいのかもしれない・・・・
 ノアールの乗った船が遠ざかる音を耳に、私はまた眠りに落ちていきました。  
 
 
 
 
 
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