「あの・・・・すみません・・・・」
思ったより軽く開いたドアを閉め、私は小さな声を出しました。
「おや、新入りさん?あんた、名前は?」
「マールと言います」
「マール、ね。あたしは、ラン。仲良くしてやってよ」
「はい、こちらこそ。あ、あの・・・・ここはどこなんですか?」
「ここに名前なんてないさ。オレはジート。よろしくな、マール」
「あ、よろしくお願いします。あの、名前がないって・・・・」
ランもジートも人懐っこそうな顔をしていたけれど、私は不安で仕方がありませんでした。ここがどこなのか、何故自分がここにいるのかもわかっていないのですから。
「名前はあったのかもしれないけど、オレは知らない。昔、ここにいたヤツが希望の館って言ってたな。希望なのか、絶望なのかよくわかんねぇけどな」
「希望の館・・・・?」
「ったくジート、ちゃんと説明してやりなよ。それがここの決まりでしょ?」
「そうだったな。今までおしゃべり好きのチィが新入りに全部話してたから、すっかり忘れてたよ。えっと、まずここの決まりは、新入りにはちゃんとここの説明をしてやる事。
そして、ここにいる間は、諍い事は起こさない事。気に入らないヤツがいたら、無視してりゃ済むんだから、ケンカを吹っかけるような事はするなって事さ。昔からあるここの決まりだ」
「だからジート、マールは決まりじゃなくて、ここの事を知りたがってるの。あたしが説明してあげるよ。マール、あんたは気がついたらドアの前にいた。そうだろ?」
「・・・・はい」
「ここに来るヤツはみんなそうなのよ。だけど、来るべくして来た、そう言ってもいいかもしれない。それはね、みんな同じものを持ってるから」
「同じ・・・・もの?」
「そう。ここに来るまでは同じ境遇なんてないのかもしれない。でも一つだけ共通するのは、最後に同じ思いを持ったって事よ」
「同じ思い?」
「な、マール、ここに来る前の最後の記憶を思い出してみろよ」
「・・・・わ、私は・・・・・」
「そう、それよ、あたしたちが持つ同じものっていうのは。あたしたちは・・・・ご主人様が大好きで、大好きで・・・・最後にもう一度、ご主人様に逢いたいと思って死んでいった猫たちよ」
「ご主人様・・・・・」
私は、マールと優しく抱き上げてもらった事を思い出し、涙を流してしまいました。
「泣くんじゃないよ、マール。また逢えるかもしれないんだから」
「また逢えるんですか?!」
「逢えるかもしれないし、逢えないかもしれない。また逢えると信じて、みんなここで待ってるのよ。ご主人様が迎えに来てくれるのを」
「迎えに来てくれるんですか?!いつ?!」
「いつかは、誰にもわからないよ。来ないかもしれないし」
「どうしたら、迎えに来てもらえるんですか?!」
「それは、ご主人様次第さ」
「そんな・・・・」
「ご主人様が死ぬ時、ほんの少しでもオレたちの事を思い出してくれたなら、銀色の帆を立てた真夜中色の船が来るんだ。それにご主人様が乗ってる」
「もし・・・・思い出してくれなかったら・・・・?」
「ずっとここにいるしかないね。ずっと待ったけど自分は迎えに来てもらえないって、絶望してここを出ていったヤツもいたよ」
「出ていったらどうなるんですか?」
「さあ。外に何があるのか、あたしは知らないし、そいつは戻って来なかったからどうなったかは知らない。希望を持つ事に疲れて、ただここにずっといて嬉しそうにここを出ていくヤツを眺めるか、
同じ絶望ならここを出て、どこかに行くかは本人次第さ」
「マールが来る前にいたチィは、70年間ここでご主人様を待ってたよ」
「70年も?!」
「ああ。チィが死んだ時、ご主人様はまだ7歳の男の子だったからな。チィは希望を、必ず逢えると信じてずっとここにいたのさ」
「そのチィさんは?」
「この前ご主人様が迎えに来て、ここを出て行ったよ。かわいい男の子だったよな、ラン?」
「うん。チィ、チィって嬉しそうに、笑顔いっぱいでドアを開けてきたよね」
「かわいい男の子?70年も待ったんでしょ?」
「迎えに来るご主人様は、あたしたちの最後の記憶の中のご主人様なのよ。だって、あたしたちの時間はもう止まっちゃってるんだから。砂の落ちきった砂時計と同じよ」
「いつになるかわからない希望を信じてここで待つのも、待つ事に疲れて絶望してここを出ていくのも、マール、お前の自由だ。ただ、さっき話したここの決まりは守るんだぜ」
「・・・・はい」
「今、ここにいるのは、あたしとジート、それにほら、窓の所にいるノアールの3匹だけだから」
私が窓に目をやると、ノアールと呼ばれた青い瞳に漆黒の毛の美しい猫が私に向かって上品に首を傾げた。
「何か、質問はあるかい?」
「・・・・いえ・・・・」
「難しい事なんて何もないさ。ここにいるか、出ていくか、それだけだからな」
そう言うとジートは毛繕いを始め、ランはソファに乗って寝てしまいました。
きっと、迎えには来てもらえない・・・・
私はもう、絶望を感じ始めていました。
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