Believe you 56

 「ブロッコリー・・・慎、食べてた?」
 「フツーに食べてましたけど?」
 今日、慎が帰ってくる。慎が私の引越の時にいなかった事を気にしたお義母さんが、みんなを呼んで忘年会でもと提案してくれた。でも、これは慎には内緒のちょっとしたサプライズパーティ。今晩のために午前中のうちに私とお義母さんは買い物に来た。 そして、明日はお義兄さんたちが来る。
 会社に行ってる方が全然楽だ、と私はキレイに並んでいる野菜たちを見て苦笑した。
 「健はピーマン、慎はブロッコリーがダメだったのよ。でも、真由ちゃんが作った物なら何でも食べるって事ね」
 お義母さんがいたずらっ子のように笑って見るので、私は顔が赤くなってしまった。
 お客様4人と私たち家族4人の食べ物の準備で、私とお義母さんは午後はほとんどキッチンにいたようなものだった。
 
 「はい、松木でございます」
 「真由?今、駅に着いたから」
 「じゃ、あと10分くらいね」
 慎は予定通り7時過ぎに帰ってくる。みんなは6時半に集合して、慎の帰りを待ってくれていた。
 「慎くん、どんな顔するかな?」
 「ワクワクしちゃうね」
 テーブルの用意を手伝ってくれていた美幸と中川さんが嬉しそうに笑っている。
 「あの子、ちゃんとお土産買ってくるのかしら?」
 「母さんは、いつもそれだな」
 「私、年明けに実家に戻りますから、うなぎパイを貢ぎますよ」
 「あれ、おいしいわよね。テルくん、いいお嫁さんを見つけたわね」
 「美幸と結婚したら、美幸が大黒柱ですよ」
 「うるさいよ、へなちょこ」
 「慎、歩くのが早いから今のうちにみんなの靴を隠さなきゃ」
 そう言ってお義母さんは、玄関に行った。
 「お母さん、かわいい」
 「お茶目だよね」
 みんな、慎の驚く顔を想像してワクワクしている。
 玄関の開く音がしたので、私が出迎えに出た。
 「ただいま」
 「おかえり。お土産は?」
 「真由もそうなっちゃうわけ?いい匂いがする。ハラ減ったよ」
 リビングのドアを開け、片足を踏み入れた慎の動きが止まった。
 「おかえりー!」
 「・・・どうした・・・の?え?!どういう事?」
 「忘年会だ、忘年会」
 「真由、一言もそんな事、言ってなかったじゃん」
 「教えたらおもしろくないでしょ。びっくりした?」
 「そりゃ、するだろ。玄関に靴もないし」
 「お義母さんが隠したの」
 「やりすぎだよ、ババァ」
 「いいじゃない。念には念を。早く座りなさいよ、みんな待ってたんだから」
 楽しい楽しい忘年会が始まった。
 「人が驚いて動けなくなる瞬間って、初めて見たような気がする」
 「うるせーよ、木村」
 「この肉じゃが、めちゃめちゃうまいんですけど」
 「それはね、真由ちゃんが作ったのよ」
 「本当だ。真由、おいしいよ。私、真由の事尊敬するわ」
 「上手よね、田辺さん。って、松木さんか。いつも間違えちゃう」
 「田辺でいいよ。ずっとそう呼んできたんだし」
 6人で囲んでいたコタツはいつの間にか、お義父さんとお義母さんも加わっていた。
 
 「何回乗ってもヒコーキは疲れる」
 「今度はファーストクラスにでもしたら?」
 「そんなゼータクはできませんよ。何かオレの部屋じゃないみたい」
 横になった慎が部屋を見回して言った。そして、そうだと小さな包みを出してきた。
 「はい、これ」
 「何、お土産?みんなより多くもらっちゃって悪いな。でも、ありがと」
 丁寧にラッピングされた包みを開けると、永遠を閉じこめたように輝くダイヤモンドが私を見上げていた。
 「まだ渡してなかったでしょ。結婚指輪はこの休み中に買いに行こう」
 「慎・・・ありがとう・・・」
 「去年の年末も、無理してでも帰ってこればよかったんだよな」
 「今更、何?でも、帰って来てたら今こうしている事はなかったかもしれないよ」
 「どうなんだろうな。・・・真由、当分ゼータクはこの指輪だけだからね。こっちじゃ向こうにいるほど稼げないだろうから」
 「戻って・・・来るの・・・?」
 「今シーズンで日本に帰るよ」
 「後悔しないの?」
 「後悔しない自信はないな」
 「来シーズンも残れるなら、いていいよ」
 「残っても残らなくても、どっちを選んでも心残りはあると思う。でも、それなら真由と子供を選ぶよ」
 「・・・いいの?」
 「そんな顔するなって。日本に戻るつもりで出ていったわけだし。その戻る時期を決めただけだから。オレだって、子供の傍にいたいしね」
 その言葉通りシーズン終了後、慎は帰国し元のチームに戻れる事になった。
 「やっとラブラブ新婚生活だね」
 美幸や中川さんにそう言われたけれどオリンピックに向けての練習や合宿で慎は家を空ける事が多く、冷やかされるほどの新婚生活ではなかった。
 ギリギリまで仕事を続けた私は6月で退職し、タロウの散歩が日課の専業主婦をしていた。私の体の事がわかるのか、タロウは決して走ったりはしなかった。
 出産予定日まであと4日という日、陣痛が始まった。初産だから予定日より遅れるだろう、と周りに言われ、そんなものか、とのんきにしていた私は不安でドキドキしていた。しばらくは痛いなというくらいだったが、徐々に増してくる痛みにどこまで耐えられるのだろうと不安も増していった。 が、そんな事を考えられるうちはまだましだった。体を引きちぎられるような痛みは、私を涙目にさせるだけで泣く余裕すら与えてくれなかった。
 「赤ちゃんもがんばってますから、お母さんもがんばってくださね」
 看護婦さんのこの言葉だけが、痛みでおかしくなりそうな私の唯一の頼りだった。
 病院に来てから18時間後、空が朝焼けに染まり新しい1日の静かで美しい時間を迎えた頃、私は男の子を産んだ。
 連絡を受け練習を切り上げて駆けつけてくれた慎は、ハードな毎日で疲れているのに一睡もせずに私の傍についていてくれた。
 「お疲れさま、真由」
 「死ぬほど痛かった。あまりの痛さで、慎に八つ当たりしちゃったね」
 「こわかったよ」
 お待たせしました、と看護婦さんが病室に赤ちゃんを連れてきてくれた。外の世界に馴れたのか、赤ちゃんはおとなしく眠っていた。
 「ちっちゃいな」
 「慎が大きいのよ。早く慎に逢いたかったんだね。予定日だったら、慎がいないのがわかってたのかな」
 オリンピックのメンバーにエントリーされた慎は、出産予定日前日から最終合宿で家を空ける予定だった。
 私が小さなほっぺをツンツンと軽くつつくと、赤ちゃんは小さな手をモゾモゾと動かした。
 「真由も子供も無事でよかった・・・本当によかった・・・」
 「泣いちゃダメですよ、パパ。ボクの事、末永く宜しくお願いしますよってね」
 慎は愛おしそうに赤ちゃんの手を自分の掌にのせ、ホント、ちっちゃいよなと涙ぐんでいた。
 
 「用意はできた?」
 2階にあがると、慎はネクタイを結んでいる所だった。
 「翼は?」
 赤ちゃんの名前は「翼」くんになった。理由は、慎がウィングスパイカーだから。単純だけど、慎らしい名前の付け方だと思う。
 「寝てる。抱っこしてから行く?」
 日中、翼はリビングに置かれたベビーベッドで過ごしている。
 「忘れ物ないよね?相変わらずヘタね、ネクタイ結ぶの」
 「これくらいフツーだろ?たまにしか着ないんだから仕方ないよ」
 ネクタイを結び終えた慎は、いつものように時計を右腕に付けた。
 リビングに降りると、慎はベッドに手を掛け、翼を見ている。
 「抱っこすれば?少しくらい泣いても平気よ」
 私たちの世界に来て、やっと半月ほど経った翼を慎はゆっくり抱き上げた。
 「首が座らないから、抱き上げる時はこわいな」
 慎が大きいから、標準サイズの翼が小さく見えてしまう。慎は笑って翼の寝顔をずっと見ている。
 「時間、大丈夫?」
 そうだな、と慎は名残惜しそうに翼をベッドに寝かせた。
 「真由、翼の事、頼むな」
 「うん。行ってらっしゃい。がんばってね」
 慎たちは今晩のヒコーキでオリンピック開催地に向かう。
 何があってもオレは飛ぶよ。慎はそう言っていた。
 「行ってきます」
 出逢った頃と変わらない小犬のような慎の笑顔。私たちは10月に教会で式を挙げる事が決まった。
 
 慎に出逢って私は変わった。慎と一緒にいて、いろんな事があって、いろんな想いを知った。慎と離れて右に左に想いがコロコロと揺れ迷い、泣いて笑って、キズついてキズつけて。 見えない物を信じる難しさと強さも知った。そして、翼という宝物が増えた。
 散歩に行こうとタロウがワンワンとしっぽを振って私を呼んでいる。
 「もう少ししたらおばあちゃんが帰ってくるから、そしたら公園に行こうね。ハナちゃん来るかな?タロウも、もうすぐパパだもんね。タロウの子供だから、コタロウにしようか。楽しみだね」
 タロウと話していると、翼が起きて泣き出した。
 「はーい、今行くよ」
 見上げた8月の空は青く澄んでどこまでも広がっていた。
 
 
 
 
  
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