「今、平気?」
 忙しさでテンテコ舞いになっている真っ只中、ケータイに彼女からの連絡が入った。
 「ごめん、今、忙しい」
 「そう、ごめんね。でも、すぐに済む事だから。時間はとらせないから」
 「だから、何?」
 僕は忙しさから、少しぞんざいな口調で答えた。
 「私ね、もう別れる。もう会わないし、連絡もしない。これが最後。忙しい所、ごめんね。それだけだから、じゃあね」
 いつもの所で待ってるから、仕事が終わったらすぐに来てね。
 彼女の口調はそんな事を言っているようで、僕には何を言われたのか理解できなくて、ツーツーツーと通話音しか聞こえてこないケータイを握ったまま固まっていた。
 その日は本当に忙しくて、彼女の事を考える間もなかった。やっと、彼女の事を考え出したのは帰りの電車の中だった。
 僕の目の前に座っている女の子がケータイでメールを打っている。そして、時折口許に笑みを浮かべる。
 彼女と同じケータイだ。僕は、ぼんやりそう思った。

 どうして?どうして彼女は急に別れるなんて言い出したんだろう?

 僕には心当たりがなかった。
 どんなに忙しくても、メールや電話は毎日必ず入れていた。週末の休みは、彼女の意見を極力優先して過ごした。僕が会いたいと思っても、彼女に先約があるなら我慢した。 そして当然、浮気なんてしていない。
 なのに、どうして?
 気付かないうちに彼女を怒らせていたのだろうか?これまでの事は、僕の自己満足で彼女には何も伝わっていなかったのだろうか?
 どうしてなのか、理由を訊いてみようか。
 そう思ってスーツのポケットからケータイを取り出し彼女のメールアドレスを表示させたが、HLDのボタンを押しケータイをポケットにしまった。
 彼女とは本当にそれきりで、未だにどうしてなのか僕には見当もつかない。


 「以上が、由美さんに会う前の僕の恋愛」
 彼女は笑ってうなづいて、メンソールのタバコに火をつけた。
 ふいの雨。咄嗟に入った目の前のカフェで雨宿り。
 「どうしてなのか、この先一生考えてもわからないと思うな。彼女には彼女の事情があったのよ。それ以上でもそれ以下でもない、彼女の事情。それだけよ」
 「そうなんだろうね」
 「今でも、彼女の事が忘れられない?」
 「うーん・・・・終わり方がひどく印象的だったから、そういう意味ではこの先も忘れられない人になるのかもしれないけど、恋愛感情はないね。由美さんの前で言うのは失礼かもしれないけど、 結構かわいくていい子だったんだ。人懐っこい性格だから、周りとうまくやっていけるタイプ。新しい彼がいてもいなくても、楽しく過ごしててほしいなって思うよ」
 「優しいのね」
 彼女は窓の方にふぅっとタバコの煙を吐き、僕を見て笑った。
 「優しいんじゃないと思うな」
 「どうして?」
 「元彼として彼女が不幸でいるのはイヤだけど、幸せでいてくれたらって思うのは彼女が他人だからだよ。極端に言うなら、どうでもいい存在。泣いてるよりは笑っていてくれた方がいい。 僕とは関わりのない存在だから、幸せを願える。それだけだよ」
 「どんな理由であれ、自分以外の人の幸せを思える事はイイコトだと思いますよ」
 「優しいのは、由美さんの方だよ」
 私?とでも言うように彼女は右手にタバコを挟んだまま、首を傾けた。
 「僕がいつ、どんな話をしても黙ってちゃんと最後まで聞いてくれる」
 「人の話は最後まで聞きなさいって、小学校で教わらなかった?」
 「教わったよ。みんな、一度は先生に言われてると思う。でも、できない人って多いよ。話の途中で質問してくるのはかまわないけど、途中までしか聞いてないのに自分の意見を言ってくる。 それが全てイヤなわけじゃないし、ありがたい時もあるけど、ただ話したいって時があるでしょ。そういう時は、別に意見を聞きたいわけじゃないのにって思っちゃうね。僕が子供なだけかもしれないけど。でも、由美さんは違う」
 「それは、私の方が雅人より年上だから」
 「僕の上司は、由美さんより年上だよ」
 「我慢する事を覚えられていいでしょ?」
 「そういう考え方もアリだね。ストレスが溜まってるらしくて、そんな事で?って事によくイラ立ってるような人だし」
 「うまくいかない事があっても、別の事がうまくいってるならバランスの取れる人。1つがうまくいかないと、全てがアンバランスになる人。1つがうまくいかないと全てを自分でアンバランスにしてしまう人。雅人の上司は3番目のタイプかな」
 「そうかもしれない。で、由美さんは?」
 「私は・・・・うまくいかない事は仕方ないってすぐに諦めて忘れる努力をする人。でも、うまくいってる事は少しでもそれが長続きするように努力はする」
 「僕との事は?」
 「努力してるつもりですが?」
 「うん、いつも感謝してるよ。由美さんは、急にいなくならないでよね」
 「離れてほしくないなら、捕まえておけばいいじゃない?お水のいらない花なんてないのよ」
 彼女のこういう所が好き。きっと前の彼女なら笑ってうなづいて、どこにも行かないよ、と言うだろう。別にそれが不満なわけじゃない。目の前でそんな事を言われたら、僕は彼女をかわいいと思うだろう。
 でも、今僕の目の前にいる彼女は違う。当たり前の、それでいて居心地のいい緊張感を改めて僕に感じさせてくれる。
 「ねぇ、私は雅人より年上だから、雅人を甘えさせる事ができるかもしれない。でも、何を言ってもどんな態度をとっても私は離れていかない、なんて変な甘え方はしないで。私、それほど寛大じゃないから」
 「努力する。でも、行き詰まった時とかさ、たまには許してよ」
 「たまに、よ」
 真顔で念を押す彼女を見て、ずっと傍にいてほしいと僕は思う。
 「あ、雨が上がったよ。帰ろうか」
 「ええ、もう?道が濡れてるから靴が汚れちゃう。今日は白のツィードの靴なのよ」
 「じゃ、駐車場までお姫様抱っこしてあげる」
 「やだ、そんなの。恥ずかしい」
 「駅や待ち合わせ場所で平気でキスできる由美さんが?」
 「それとこれとは、別です」
 少し怒ったような目で僕を見る彼女。
 「なんだかさ、今すぐ由美さんの事をぎゅうって抱きしめたいよ」
 「どうぞ」
 できるなら、かまわないわよ。彼女の目が、いたずらっ子のように言っている。
 「ここで抱きしめる勇気はないから、早く帰ろう」
 彼女は笑ってうなづいてくれる。
 雨上がりの空には、薄く虹が出ていた。
 それを見つけた彼女は嬉しそうに笑っている。大人時々子供、な彼女。そんな彼女の手を僕は強く握った。
 ふいの雨も悪くないな。虹を見上げる彼女の横顔を見て、僕はそう思った。
 
 
 
 
 
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